小松剛生さんの第1回 辻原登奨励小説賞受賞作『切れ端に書く』(第05回)をアップしましたぁ。『切れ端に書く』はエクリチュール小説で、作品がかもし出すある雰囲気(アトモスフィア)を一番の魅力にしている作品ですが、今回からいわゆる〝事件〟が起こります。ニッケル君が主人公のアジ君に仕事を紹介するんですね。もちろんリアルな仕事ではありません。ニッケル君は仕事を紹介するかわりに、「みずむらさき」を探してほしいとアジ君に依頼します。それ以上の情報は与えられません。
失われた何物かを、何事かを探すといふのは、ここ2、30年くらいの小説の密かな主題になっています。もちろんその〝喪失〟はアプリオリで絶対的なものであり、どのような形であろうと奪還することはできません。したがってそれを探す過程(=旅)の往路と帰路が物語の中心(エクリチュールの流れ)になります。この場合、なにか決定的なものが見つかってしまうことは、むしろ小説世界の破綻に直結することになります。戦後文学がある決定的な事件や観念を探究する姿勢をどこかで持っていたのに対し、現代小説ではそのような決定的事件・観念は失われているわけです。
文学作品といふのはなかなか微妙なもので、探索といふテーマは本質的には何かが見つかってはいけなひ主題であるわけです。もし作品の終わりで何かが見つかったとしても、それは追い求められていた何事かとは違うものであることが示唆されなければならない。この反対にある決定的な事件・認識から作品をスタートすることもできます。この場合は当初の決定的事件・認識が崩れる方向に作品が進むことになる。いずれにせよ特に小説といふ文学形態の場合、いわゆる〝結論〟はそれほど重要ではない。入れ子構造的な世界認識全体が示される方が、秀作に近づく可能性を持っている文学形態だと言えるでしょうね。
ただ現代のアトモスフィア小説の本当の主題である、ある決定的事件・認識の喪失、あるいは決定的といったこと自体の先延ばしは、いつまでも使い続けることができる伝家の宝刀ではありません。簡単に言えば作家の寿命は限られている。書ける作品の数だって結局は限りがあるのであり、ずっと主題の探究を先延ばしにするわけにはいかない。アトモスフィア小説の系譜は多和田葉子から村上春樹さんに至るまで続いていると思いますが、どこかで意図的な踏み外しが必要でせうね。そこがアトモスフィア小説作家の正念場だとも言えます。
■ 小松剛生 連載小説『切れ端に書く』(第05回) pdf 版 ■
■ 小松剛生 連載小説『切れ端に書く』(第05回) テキスト版 ■