骨董を買い始めてからしばらくして、ある雑誌でデルフト焼きの特集を見た。絵や色のない白磁の器ばかり集めた特集だった。デルフトは現在のオランダ(ネーデルランド)、ベルギーあたりで制作されていた焼物の総称である。骨董の世界で見るもの触れるものすべてが新鮮だった頃なので、「面白そうだなぁ」と思いながら繰り返し図版を眺めていた。そのうちある骨董屋さんでデルフトの小壺が売られているのを見つけた。高さ7センチ、口径8センチくらいの背の低い壺で、デルフト特有の白い釉薬がかかっていた。正式な名称は知らないが、骨董屋さんは「クリームポットと呼ばれています」と教えてくれた。軟膏などの薬を入れていた器で、ほとんどが発掘品なのだという。そんなに安くなかったが、ちょっと無理をして買ってみることにした。焼物は手元に置いてじっくり眺め、使ってみなければその本当の良さはわからないということをすでに学習していたのである。
しばらく使ってみたのだが、この小壺、あまり面白くなかった。もっとしっかり焼き締められた物もあるのだろうが、僕が買った小壺は焼きが甘く、液体を入れて放置しておくと染み出してきた。手取りも軽く、何かスカスカな感じがする。とろりとした感じの白磁釉は魅力的だが、日本の陶器のように使っているうちに変化するものでないことはすぐにわかった。デルフトは磁器のような外見だが、実は土を焼き固めた陶器である。陶体の上に釉薬を掛けて磁器のように仕上げている。ただ土と釉薬の相性は余り良くないようで、ところどころボロッと釉薬が剥落している物も多い。デルフトの釉薬は焼くとガラスのように固まるが、土が釉薬を余り吸収しないので、ぶつけたりすると剥がれてしまうことがあるのだ。そのうち飽きてどこかにしまいこんでしまった。それ以来、デルフトのことはしばらく忘れていた。
骨董を好きになると、どうしても日本びいきにならざるを得ないところがある。骨董は物自体の存在感で過去の時代の息吹を伝えてくれる遺物だが、陶器などは文字情報をともなっている物が少ない。わずかな手がかりを元に骨董を読まなければならないのだが、制作方法などから僕らが読み解くことができるのはやはり日本文化なのだ。物そのものは魅力的でも南米やアフリカ大陸の骨董に今ひとつ真剣な興味を抱けないのは、これらの地域と日本との文化的、歴史的なつながりが薄いからである。日本が圧倒的な影響を受けてきたのは韓国・中国文化である。当然、日本の骨董好きの興味は、日本の遺物を中心に朝鮮や中国物に集中しがちになる。ただ骨董は出たとこ勝負の世界でもある。物を見せられて、初めてなにかに気がつくのも骨董の醍醐味である。
あるとき骨董屋さんで、中国風の定型模様が周囲に描かれた皿の中央に、ヨーロッパ人が描かれたデルフトを見せられた。「シノワズリ、いわゆる中国趣味のデルフトです。中国磁器はカラック船でヨーロッパに運ばれたので、カラック様式とも言います(オランダ本国ではファイアンス陶器と呼ぶ)。これはいわゆる南蛮人が描かれているので、少し変わったカラックですが」と骨董屋さんは説明した。「ああ、そうか」とその時初めて気がついた。江戸以前の日本で唯一定期的な交渉があった国はオランダである。幕末には医学を中心に蘭学が怒濤のように流入してくるが、鎖国を国是としていた日本がヨーロッパ文化受容のための唯一の窓口にしていた国がオランダなのある。徳川260年余の長い歴史の中で、それが物の形として残っていないはずはない。僕のように純粋な物フェチではなく、物を通して歴史の精神を把握したいと考えている骨董好きは、白磁のデルフトではなく絵(記号的情報)のあるデルフトに注目すべきだったのである。
調べてみると、デルフト焼きには驚くほど大量のシノワズリ(中国趣味)やジャポニズム(日本趣味)様式の作品が残っていることがわかった。デルフト(繰り返しになるが、オランダとベルギー一帯で焼かれた陶器の総称)は、元々はイタリアのマジョルカ焼きに影響を受けて始まった焼物である。初期はマジョルカ風の明るい色絵の陶器を焼いていた。しかし本格的な大航海時代が始まってヨーロッパに中国磁器が輸入されるようになると、中国磁器を模倣した作品(倣製)を盛んに作るようになった。当時の中国磁器(明時代後期にあたる)の大半は、白磁の上に染付(コバルト)で絵を描いた青華様式(ブルーアンドホワイト)だったので、デルフトでも色絵の生産は少なくなり、白磁釉の上に染付で絵を描くようになった。
ヨーロッパはガラスや金属製品では先進国だが、焼物の技術は中国や日本に比べて大きく立ち後れていた。1709年にドイツのマイセンで錬金術師フリードリッヒ・ベドガーが磁器の制作方法を見出すまでヨーロッパでは磁器を作れなかった。中国磁器は当時のヨーロッパで大変な人気で王侯貴族が争って買い求めた。しかし遠い東洋から運んで来るのでその値段は当然高かった。だが現地で作るデルフトの倣製品は比較的安い値段で買うことができた。また当時のヨーロッパ人は、本物の中国磁器とデルフトの陶製倣製品の違いに敏感ではなかったようである。同じような絵が描かれていれば中国製だと思っていたようだ。そのためデルフト初期のシノワズリ製品は中国磁器を忠実に写した物が多い。
日本には室町時代末期の1543年(天文12年)に、ヨーロッパ船としては初めて種子島にポルトガル船が漂着し、次いでスペイン船が寄港するようになった。オランダが初めて日本に来たのは半世紀ほども後の1600年(慶長5年)である。大きく出遅れていたにも関わらず、オランダが対日貿易を独占することができたのは、その巧みな外交交渉能力はもちろんのこと、キリスト教布教に対する考えがポルトガルやスペインとは異なっていたからである。当時のヨーロッパはカトリックとプロテスタントの宗教対立の真っ最中だった。スペインの属国だったオランダにはプロテスタントが多く居住していたが、スペインのカトリック強要政策に抵抗して長い長い独立戦争(80年戦争)を闘っていた。またカトリック側は自派の優位を証明するための新たな伝道活動に燃えていた。
ポルトガルは「胡椒とキリスト教徒の獲得」を大航海時代の二大目的としていた。スペインも同様で、植民地としたフィリピンや南米をカトリックに改宗させている。しかしオランダにはキリスト教布教という目的がほとんどなかった。VOCのマークで知られる1600年設立のオランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)は世界最初の株式会社であり、純粋な利潤追求のための組織だった。このようなオランダの姿勢は幕府にとっても都合がよかった。幕府は慶長18年(1613年)のバテレン追放令で正式にキリスト教を禁教としたが、それでもポルトガルやスペインは次々に宣教師らを日本に送り込んでいた。利益獲得の他に目的がなく、かつ東南アジアでポルトガルやスペイン、イギリスと激しい覇権争いを繰り広げているオランダを貿易のパートナーに選ぶことは、ヨーロッパとの交流の窓口は残しておきたいが、キリスト教は排除したい当時の幕府の施策に合っていたのである。
鎖国政策が完成すると、幕府はそれまで平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移し、外部との接触を厳重に禁じた。江戸後期のシーボルトの時代になると監視はだいぶ緩くなるが、江戸初期は厳しかった。オランダ商人は、将軍に拝謁するための年に一回の参府旅行以外は狭い出島の中に閉じ込められた。オランダ商人の将軍拝謁は中国の藩国制度に倣ったもので、日本国との交易を許されていることを臣下として将軍に感謝するためのものだった。屈辱的とも言える待遇だが、その見返りとして、黄金の国ジパングと言われた日本の金や銀をオランダは有利な条件で獲得することができた。幕末になると、豊富な産出量を誇っていた日本の金銀はオランダを通してほとんど海外流出していたのである。また京都に南蛮寺(キリスト教寺院)があった織田信長や豊臣秀吉の時代と比べればヨーロッパ文化の流入窓口は極限的に絞られてしまったわけだが、それでも出島を通して大量の文物が流入した。
江戸期に輸入されたヨーロッパの陶磁器を、日本の茶道の世界では「阿蘭陀(オランダ)」とひとくくりにして呼ぶ。そのほとんどがデルフト焼きだが中にはドイツやフランスで作られた焼物もある。既製品を輸入していただけでなく、中国や朝鮮に対してそうしていたように、日本のお茶人は、紙を器の形に切った見本(切り型と呼ばれる)などをオランダ商人に託して自分たち好みの作品を発注していた。日本のお茶人は間違いなく世界中で一番陶磁器の微細な差異に敏感な人々である。中国は焼物を作り始めて以来ずっと、なんとかして土を意識させない焼物を作ろうとしていた。中国では江戸初期には磁器の生産技法が軌道に乗り、もはや土臭い陶器は作らなくなっていた。朝鮮も同様で、秀吉の文禄慶長の役で国土が荒廃し新たに窯を作り直さなければならなくなった陶工たちは、従来の陶器窯ではなく、当時の最先端技術である磁器窯を作るようになっていた。お茶人たちは中国や朝鮮から、土を感じさせる異国情緒豊かな陶器を輸入できなくなっていたのである。そこにデルフト焼きが現れた。お茶人たちは中国や朝鮮とは異なるデルフト陶器の風合いを愛した。デルフト焼きは一世を風靡したようで、後に京焼きなどでその写し物が盛んに作られている。
またデルフトも日本の焼物の影響を強く受けることになった。1662年(寛文2年)に明朝が倒れ新たに清王朝が樹立される前後の期間、中国は国が乱れ、輸出が一時的に止まってしまった。中国から磁器を輸入できなくなったオランダは、その代換品を日本に求めた。伊万里焼の磁器が大量にヨーロッパに輸出されるようになったのである。ブルーアンドホワイトの染付皿の真ん中に「VOC」マークのあるオランダからの注文品が有名だが、当時伊万里で盛んに作られていた染錦(元禄染錦ともいう)と呼ばれる華やかな色絵磁器も盛んに輸出された。オランダの窯場もそれに敏感に反応した。デルフトでは中国磁器とは違う、柔らかい雰囲気を持つ伊万里の色絵を盛んに写すようになった。それがまた日本に輸入され、お茶人たちはその微妙な差違を楽しんだのである。
南蛮美術(山本俊則氏の美術展時評『No.012 南蛮美術の光と影』参照)を別にすれば、江戸期以前で確認できるヨーロッパ美術からの大きな影響はデルフト焼きくらいである。出島という細い細い流入口しかなかったにも関わらず、日本の焼物はデルフトの絵付けや器形から確実に影響を受けている。またデルフトも日本から影響を受けた。幕末になり浮世絵がブームになるまで、ヨーロッパで日本からの確実な影響を確認できる美術品はデルフト焼きだけだと言っていい。日本の明治維新前後の19世紀末にヨーロッパではジャポニズムブームが巻き起こるが、その下地を作ったのは、日本から細々と輸入されそれを写したデルフト焼きの記憶だったのである。
藍絵シノワズリ(カラック)様式人物皿 口径34.1×高さ4.8センチ
*ぶち割れの参考品だが、17世紀前~中期に作られた典型的なシノワズリ(カラック)様式のデルフト。陶器だがかなりの薄造りである。デルフトの皿には最大で口径50センチくらいの遺品があるが、この作品は比較的大きな方である。
藍絵シノワズリ(カラック)様式南蛮人(オランダ人)皿 口径25.5×高さ3.5センチ
*固く焼き締められた半陶半磁の作品だが、皿の周辺に、芙蓉手といわれる中国磁器の様式で定型模様が描かれている。また皿の周辺と見込みに紅毛人(オランダ人)が描かれている。17世紀前~中期のデルフトには中国磁器を忠実に写した物が多いので、17世紀末から18世紀前半に焼かれた作品ではないかと推測される。ヨーロッパ人がこのような図柄の作品を喜んだとは思えないので、日本向けの輸出品として作られたのではないだろうか。
元禄染錦写八画面取筒型花瓶 口径7.9×高さ16.8センチ
*伊万里の錦手を写したデルフトで、17世紀末から18世紀前半に焼かれた作品ではないかと推測される。マット色の白釉なので柿右衛門様式の濁手(にごしで)の影響を受けている可能性が高い。マット色の白釉デルフトには日本からの注文品が多いので、日本のお茶人がオランダへ注文した作品の可能性もある。高台の窯印から、1687年から1701年頃まで稼働していたことが確認されているデルフトの「ギリシアのA工場」系の作品だと推測される。
元禄染錦写八画面取筒型花瓶 全体模様と高台
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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