お店に並べられている骨董を手に取って、「これはどういう物ですか?」と尋ねると、「それはね」と答えて図版類を何冊も開いて懇切丁寧に説明してくれる骨董屋さんがいる。特に志野織部と唐津に詳しく、それらについては本を書いたり講演ができるほどの博識ぶりだ。当然、骨董を見る目も優れている。あるとき彼のお店で話し込んでいる時に、「この前、古館九一(ふるたちくいち)の唐津呼継茶碗(よびつぎちゃわん、複数の陶片を削って組み合わせ茶碗や皿に仕立てた物)を買いました」と僕は言った。
「古館九一? どうして彼が継いだ唐津だとわかったんですか?」
「箱に『古新』と書いてあったんです」
「古新って?」
「古館九一の俳号です。古館さんは荻原井泉水門下で、古新の俳号で機関誌『層雲』に俳句を発表していたようなんです」
「へぇ、鶴山さんは物知りだなぁ」
「そんなことないですよ。ほら、ここに書いてあります。これ、唐津の説明をするときに、いつも見せてくれる雑誌じゃないですか」
そう言って僕は、骨董屋さんの本棚にあった雑誌『遊楽 1998年1月号』を開いた。この号の特集は『古館九一 遺愛の唐津』である。古館さんの娘の一力安子さんが『愛陶の人』というエセーを寄稿され、その中で古館さんの俳号が古新だと書いておられる。骨董屋さんは僕が指さした箇所を読むと、「ほんとだ。ぜんぜん気づかなかった。骨董好きは写真ばっかり見てて文章は読まないからなぁ」と言って笑った。それは僕も五十歩百歩だが、たまたまこの号は読んでいたのである。その後骨董屋さんを訪ねると「うちのお客さんで、古新の箱書きのある呼継唐津を持っている人がいましたよ」と教えてくれた。骨董の性格上、それほど大量ではないだろうが、古館翁遺愛の唐津はそれなりの数が市場に存在しているようである。
古館九一は明治7年(1874年)生まれ、昭和24年没(1949年、享年75歳)の古唐津研究家で茶人である。古館家は唐津の素封家で酒造業を営んでいたが、九一は搗島炭坑に勤め、昭和5年(1930年)に専務取締役を退職してからは古唐津の研究に一生を捧げた。古い唐津の窯跡を発掘して陶片を蒐集し、めぼしいものを呼継して自宅で開く茶会に使用した。一力安子さんによると、古館家にはまだ30点ほど九一の呼継古唐津が残っているが、大半は散逸してしまったようだ。古唐津研究家では地元唐津の陶芸家・中里太郎右衛門や金原陶片、水町和三郎氏らが有名だが、窯跡の実地発掘調査では九一が主導的な役割を担っていた。九一の古唐津コレクションは有名で、戦前のことだが加藤唐九郎、小山冨士夫、川喜田半泥子らも唐津の古館家を訪れている。九州の百貨店王と呼ばれた田中丸善蔵が蒐集した田中丸コレクション(現在九州国立博物館と福岡市美術館に寄託されている)にも九一の旧蔵品が多数含まれている。古唐津人気は戦後になるとうなぎ登りに高まり、今では最も人気のある日本の焼物だが、九一翁はまだ注目されていない時代に研究と蒐集を行った先駆者である。
古陶磁の研究は、生産地の研究と消費地の研究に大別できる。生産地研究は、古陶磁が、いつ、どこで、どのような手法で作られたのかを研究する学問である。それによって新技法の伝来時期や大まかな物流システムがわかるのである。新技法の場合、江戸期以前は人が来なければ伝わらないわけだから、中国や朝鮮から日本に陶工がやって来たことになる。消費地の研究は古陶磁の使われ方を研究する学問である。日本の場合は茶道研究と呼んでもいい。お茶人が残した箱書き(陶磁器の保存箱に書かれた文章)や茶会記などを丹念に調べて、いつ頃からどんな御道具を使うようになったのかを研究するのである。道具類の変遷は時代の美意識を反映している。茶道で新たな道具が使用されるようになる時は、必ず大きな時代の変化が背景にある。それがどういう質のものであったのかを残されたわずかな文章と道具類から読み解くのである。
ただ古陶磁研究も消費地研究も一筋縄ではいかない。道具は実用目的で購入するものである。生産地はあまり問題にならない。茶道ではなおさらで、お茶人は自分たち好みの作品を各地の窯場に注文して生産させていた。お茶の世界では「作る半分、選ぶ半分」と言い方をすることがあるが、日本各地で生産された陶磁器は注文主の商人や茶人の元に送られ、彼らがその中から好みの作品を選んでいた。圧倒的に注文主(クライアント)の力が強かったのである。志野を含む織部焼は古田織部の失脚とともに生産地がわからなくなってしまったが(『第3回 図録を読む』参照)、磁器の初期色絵作品である古九谷の生産地も長い間謎のままだった。近年の発掘調査で伊万里で焼かれたと断定されたが、長らく加賀藩で作られたと信じられていた。古九谷は加賀前田藩が主な注文主(大クライアント)で、多くの名品が伝来していた。江戸後期に加賀藩は地場産業である九谷焼を始めて古九谷写しを生産したため、加賀藩で制作されたのだと思われていたのである。
発掘調査もそう単純ではない。僕は古唐津の研究本では水町和三郎氏著の『古唐津 上下』(出光美術館選書6、7巻)に絶対的な信用を置いている。理由は水町氏の発掘調査がまだ古唐津の窯跡が温存されていた戦前に行われたからである。唐津地方は良質の陶土に恵まれていたが、焼成のための木がなくなると窯場は山の中を転々と移ってゆく。数え方にもよるが、古唐津の窯跡は100箇所近くあるはずである。古唐津は幕末頃から一部のお茶人の間で人気が出始め、少しずつ発掘が始まった。窯場の側には物原(ものはら)といって、失敗作を捨てたゴミ捨て場がある。そこを掘り返して使えそうな作品を見つけ出すのである。骨董の世界では、幕末に物原から拾われて伝世した古唐津を「発掘伝世」とか「中途伝世」と呼んでいる。さらに戦後になって古唐津人気が高まると、自治体が条例などで禁止しても窯跡の盗掘が後を絶たなくなった。それまではゴミに過ぎなかった物が金目の物に変わったのである。窯跡に学術的発掘調査が入っても、すでに掘り返されて上層と下層の区分がわからなくなってしまっている場合もある。たかが陶磁器といっても、地道な発掘調査と使用記録を付き合わせなければ、その流通を含む文化的全体構造は把握できないのである。
陶磁学者の見解も一様ではないようだ。桃山時代は織田信長が最後の足利将軍義明を奉じて入洛した永禄11年(1568年)から徳川家光が征夷大将軍に任ぜられた元和9年(1623年)までと考えるのが一般的である。この区分を基準に、従来の古唐津研究では大まかだが「桃山時代作」と「江戸時代初期作」に制作時期を区分していた。しかし近年で最も大規模な古唐津展である出光美術館開催の『古唐津』展(2004年)では全作品が「桃山時代作」に統一され、かつカタログに「桃山時代」の定義がない。これでは研究が進んでいるのか退行しているのか判断できない。また出光『古唐津』展出品作には、かなりの高い確率で贋作と言える作品が混じっている。いずれも過去に刊行された美術展カタログには掲載されていない作品である。陶磁器に限らないが、美術館カタログは美術品を鑑賞するための重要な指標である。しかし人間がやることだからいつも美術館が正しいとは限らない。信用のおける調査や図録は自ずと限られてくるのである。
記録や審美眼という面でも古館九一が残した呼継作品や記録の資料的価値は高い。九一は几帳面な性格で、発掘年月日やその状況などを詳細に記録している。発掘ノートには窯の形のスケッチや、写真類なども添付されている。まだ荒らされていない唐津古窯の姿を知ることができるのである。また九一が古館家で開催していた茶会を記録した『古新亭茶日記』からは、翁の茶道具に対する美意識を読み取ることができる。九一の業績の一部は、最近(2010年)になってようやく『絵唐津模様集』(里文出版)としてまとめられた。九一の長男・均一氏の絵唐津デッサン集を長女・一力安子氏がまとめられたのである。古陶磁研究は考古学、古文書、美学などが複合した多面的学問である。九一翁などの民間研究も含めて総合的に考察しないとその全貌は捉えられないと思う。
別に陶磁器に限らないが、美術を鑑賞するためには微細な痕跡を読み取る目の力が必要とされる。僕が購入した唐津茶碗を古館九一作と断定したのは、単に箱書きがあったからではない。箱の底には昭和39年5月18日の唐津新聞が敷かれていた。そこから古館家にあったかどうかは別にして、この茶碗が少なくとも昭和39年まで唐津地方に伝わったことがわかる。また一力安子さんはエセー『愛陶の人』で九一の呼継作品が完成すると、「殆ど家に常駐していた指物師の小杉さんが、それぞれに桐箱を作ってくれた」と書いておられる。戦前の素封家ではよくあったことだが、はっきり言えばあまり腕の良くない職人を専属で雇っていたのである。僕が入手した古唐津茶碗の箱はプロの指物師の手になる作りだが、それほど上質ではない杉板製である。一力さんは「桐箱」と書いておられるが杉箱が多かったのではなかろうか。骨董の世界では、唐津の呼継の優品はなぜか粗末な杉箱に入った物が多い。たとえ箱書きがなくとも、箱を比較検討すればそれらは九一翁呼継作品であると推測できる可能性がある。
また箱に入っていたのは唐津焼きでは最もポピュラーな緑唐津である。飯洞窯は唐津で最も古い窯の一つだが、高台のある土台の陶片にわざわざ6片の陶片を呼び継いでいる。九一の時代にはもっと程度の良い陶片があったはずなのである。ただその理由は作品を詳細に見つめればすぐにわかる。土台の大きな陶片には見込みに釉溜まりがある。また高台は見事な三日月型をしている。古来お茶の世界で珍重されてきた三日月高台である。この釉溜まりと三日月高台を惜しんで九一翁は呼継をされたのである。物言わぬ陶磁器にはわからないことも多いが、わずかでも手がかりがあれば読み解ける事象も多い。九一遺愛品は比較的読み解きやすいが、それは彼の骨董に対する審美眼が一貫しているからである。九一が取り上げて記録に残した陶片一つ見てもその理由ははっきりしている。九一翁の呼継唐津茶碗はいろいろなことを教えてくれるのである。
古館九一作呼継古唐津茶碗 飯洞窯 桃山時代 口径11.9×高さ6.3センチ(いずれも最大)
見込と高台および九一翁箱書
古唐津陶片 表・裏
*上左から①九十官窯(縦11×横7.5×高さ1.3センチ)、②道納屋下窯(縦9×横6×高さ1.5センチ)、③内田皿屋窯(縦11.7×横8.8×高さ2.4センチ)
*下左から④藤の川内窯(縦11.1×横9.8×高さ3.7センチ)、⑤小溝山窯(縦11×横11.6×高さ1.4センチ)、⑥市ノ瀬高麗神窯(縦16.9×横9.2×高さ1.8センチ)
*骨董を買い始めてしばらくして古唐津に興味を持ったが、窯によって作風があまりにも違うので、とりあえず陶片を買って勉強してみようと思った時期があった。一時は段ボール一箱くらい陶片を持っていたが、大半は処分して図版掲載した6点ほどが残った。比較的珍しい陶片で、制作された窯がわかっている物ばかりである。
*①の九十官窯陶片には和様化した燕子花が描かれている。この模様は伝世品にはないと思う。②の道納屋下窯、⑤の小溝山窯には海老の頭と胴体が描かれている。古館九一翁のご子息・均一氏著の『絵唐津模様集』に同手の陶片が掲載されている。現物も残っていて、佐賀県立九州陶磁文化館か唐津城の天守閣で展示されているはずである。海老模様も伝世品は存在しないが、人気の陶片のようで後絵(無地の唐津に上から絵を描いて再度焼成した贋作)のものをよく見かけるが、本物と言えるものは九一翁収集品と僕が持っている物以外今のところ見たことがない。③の内田皿屋窯陶片には初期伊万里にもある山水紋が描かれている。唐津窯が伊万里窯に移行した一つの証左である。④の藤の川内窯陶片は朝鮮唐津徳利残闕だが、胴の部分には轆轤ではなく叩き成形の跡がはっきり残っている。首と胴の継ぎ目にわずかな土の盛り上がりがあるので別々に作って繋ぎ合わせたのだろう。また首の箇所には輪線状の削り跡が残っているが轆轤の跡ではない。独立して首部分を成形し、口径の広い部分から篦を入れて土をそぎ取った後に、胴と接着させたのではないかと考えられる。
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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