大篠夏彦さんの文芸誌時評『No.015 文學界 2014年09月号』をアップしましたぁ。アメリカの純文学作家、ローラ・ヴァンデンバーグの「南極」(藤井光訳)を取り上げておられます。「文學界」さんでは定期的に海外文学の翻訳が掲載されているのです。大篠さんは「アメリカ文学は、ほとんど伝統的に恐ろしく暗い。・・・ハリウッド映画やポップ・ミュージックからはうかがい知れない、内面に沈み込むような暗さがアメリカ文学の基層を為している。その暗さは、ときおり日本の私小説にも通じるような側面を見せる」と書いておられます。
確かにそうだなぁ。大篠さんは、「アメリカ人のパブリック・イメージは社交的で明るいものだが、ある調査では半数近くの国民が自分は内向的人間だと答えているのだという」とも書いておられますが、アメリカ文学には独特の暗さ、内向性があります。もち日本の私小説のような書き方はしませんが、物に憑くやうな形で現実界が内面化していくやうな方法が多い。リディア・デイヴィスとか、最近では優れた女流作家が出現しております。だけんどもちアメリカでも純文学はあまり売れておりまへん(爆)。
大篠さんは「文學界」さん掲載の蓮見重彦先生の講演「『ボヴァリー夫人』余話や東浩紀氏と阿倍和重氏との対談もちょっと取り上げておられます。「文芸誌はかつて、作家を志す者たちにとっての窓だったと思う。文学への窓であり、付随的に文壇への窓でもあった。しかし・・・文芸誌を読んでいると、窓のない部屋に閉じ込められているような気がする。次々にスターと呼ばれる作家たちがステージに登場するが、そこで上演される寸劇は部屋の中での出来事で閉じて〝外〟には通じていない。難しい時代になったものだと思う」と批評しておられます。
む~確かに文壇の内と外ではもの凄い温度差があるのよねぇ。ほんで作家志望者ですら、文芸誌はそのインサイダーに取り込めていないやうなところがあります。作家の卵さんたちも、まず文芸誌からインサイダーにしてもらってから、その仕組みを理解しやうとしているやうなフシがある(爆)。詩壇も同じですけど、インサイダーになると外の世界が見えにくくなってしまふのは永田町と同じだと思いまふ。でもみんな永田町が権力を持っていることを知っているから、永田町の人になってもいいかなぁと思っているんぢゃないかな。ま、どっちゃもどっちゃなわけで、双方協力して距離を縮めてゆくしかないでせうね。一番いいのは作家が的確に現状を理解して、自分で自分の立ち位置を決めることです。
■ 大篠夏彦 文芸誌時評 『No.015 文學界 2014年09月号』 ■