大篠夏彦さんの文芸誌時評『No.015 文學界 2014年08月号』をアップしましたぁ。西村賢太さんの私小説「菰を被りて夏を待つ」を取り上げておられます。作品には主人公・貫多しか登場せず、ひたすら彼の内面が表現されています。日雇い労働で食いつなぎながら、乏しい収入からお金を捻出して、私小説作家・田中英光の初版本や作品初出雑誌を買い集めている青年です。ただその一方で貫多は家賃を踏み倒し、通信販売で送られて来た雑誌の購入費を振り込まずに踏み倒してしまふ。「胸のうちで、(家賃に払う金なぞ、ねぇっ!)と嘯く貫多は、あと一箇月で名実ともに二十歳を迎えようとしていた」といふのが小説のラストです。
この小説について大篠さんは、「底辺の人間として生きながら、社会に対して・・・呪詛と罵倒を浴びせかけるところに私小説と呼ばれる芸術の真価がある。もちろん普通に考えれば、貫多の心の叫びは自意識過剰な社会的弱者のたわごとである。しかしそこに日本人、あるいは日本文化を貫く〝ある真実〟が存在するのも確かである。・・・滑稽かつグロテスクなまでに肥大化した人間の自意識は、・・・それ自体が神のような絶対的心性である。しかしこの心性は必ず他者と、社会と激突する。その時、絶対であるはずの自我意識は揺らぐ。その歪みの中からある一筋の道が示される。・・・それが・・・くねりながら真っ直ぐに続く、人間が辿るべき道、そこにしか行き着きようのない道であるのは確かだろう」と批評しておられます。
ただ大篠さんが「西村のように、資質的に近しいものを持っているのはもちろん、研究と意志的な覚悟をもって取り組む作家でなければ、もはや私小説は不可能になりつつある」と書いておられるのは正しいでしょうね。大篠さんは「純文学的な〝枠組み〟」という言葉を使っておられますが、私小説〝風〟の作品と私小説は明らかに異なります。それは「文學界」を読めば誰でも気づくことです。そして私小説〝風〟の作品を純文学として提示する場合には〝枠組み〟が必要になる。「「文學界」のような立派な文芸誌に掲載されたから純文学なのか、純文学だから文芸誌に取り上げられたのか、もはや誰にもわからない」わけです。・・・といふのが今回の批評のレジュメでしたぁ(爆)。
■ 大篠夏彦 文芸誌時評 『No.015 文學界 2014年08月号』 ■