瀬戸石皿(部分) (著者蔵)
お正月なので、おめでたい「大福」文字が入った瀬戸石皿について書こうと思う。大福というとすぐに大福餅を思い浮かべてしまうが、大福餅を山盛りに積み上げるために作られた皿ではない。大福はBig Happinessの意味である。古伊万里では器の裏側に「富貴長春」などの吉祥文字を入れることがあるが、瀬戸石皿では裏側には何も書かず、皿の真ん中にどーんと文字や絵を入れるのが普通である。
石皿は「煮しめ皿」、「にしん皿」とも呼ばれる。野菜やにしんの煮物などを盛りつけるのに使われたのである。昔は大家族が多かったので大皿が重宝された。また江戸後期になると、町中はもちろん街道筋や峠にも、庶民向けの飲み屋や一膳飯屋などが増える。石皿はそのようなお店でも料理を盛りつけるのに使われたようだ。
庶民が普段の生活で使った大皿を石皿と総称するわけだが、産地は様々で日本全国で作られた。中でも最も有名なのが瀬戸地方(現・愛知県瀬戸市)で作られた石皿である。この地方は古来焼物の産地として有名だった。平安時代から室町時代にかけては古瀬戸と呼ばれる焼物を作っていた。桃山時代になると、近隣の美濃窯(現・岐阜県)で志野や織部焼きの茶陶の生産が盛んになった。そこで活躍したのも瀬戸の陶工たちだろう。江戸初期まで瀬戸は焼物先進地だったのである。
ただ江戸初期に九州の伊万里地方で磁器生産が始まると、磁器は高級食器、陶器は庶民用の雑器という区分ができてしまった。軽くて丈夫で清潔な磁器に人気が集まったのは当然だった。陶器は茶道具中心に細々と作られ続けたが、その生産は徐々に茶道精神を深く解する京都の陶工が担うようになった。奥田頴川、青木木米、永樂保全、仁阿弥道八など、江戸時代を代表する茶道具の陶工は皆京都(京焼き)の人である。幕末になると瀬戸地方でも磁器生産が始まり、明治以降はセトモノと言えば磁器を指すほど有名になるが、それまで瀬戸は庶民用の陶器を作り続けたのである。
【参考図版】馬の目皿風 仮名手本忠臣蔵
径二十五・五センチ
石皿がいつ頃から生産され始めたのかはよくわかっていない。江戸後期の文化・文政期から明治頃にかけて最も盛んに作られたようだが、生活雑器だったので年号が入っている作品や箱などがまったくないのである。ただ生産開始時期を推測できる作品はある。参考図版の石皿には、右から「市川団蔵」、「仮名手本忠臣蔵」、「本蔵大あたり」と書いてある。この団蔵は三代団蔵だと推測されている。三代団蔵は加古川本蔵の当たり役で人気だった。三代団蔵は宝永六年(一七〇九年)生まれで宝暦年間に活躍した人なので、石皿は遅くとも江戸中期頃には生産が始まっていたようだ。
瀬戸石皿 大福文字 (著者蔵)
径二十六・五センチ
僕が持っている石皿も制作年代はわからない。しかし江戸中期くらいの作で、石皿としては古い部類に入るのではないかと思う。馬の目皿が典型例だが、石皿は縁の部分が扁平になっている物が多い。だが大福石皿は普通の皿の縁造りで、これは古い作品に多い形である。大福の文字が端正であることも、大量生産が始まる前の作品であることを示唆している。あとは骨董好きの勘である。江戸後期に造られた陶器は、いくら酷使されたからといって大福石皿のような古色にはならない。
石皿も最近は人気の骨董で、珍しい図柄の物になるとそれなりに高価な値段で取引される。ただ高いと言っても目の玉が飛び出るほどということはない。残っている数も多いので、骨董の中では下手の物だと言っていいだろう。
【参考図版】石皿 ゆどの初め
径二十七・八センチ
写真の石皿は写真家の土門拳旧蔵品で、瀬戸石皿を代表する傑作である。両側に「ゆどの初め」「無事」という文字があり、真ん中に湯船に浸かる女性が描かれている。当時としてはちょっとエロチックな画題だが、なんともめでたい感じのする作例である。石皿の文字はゆどの初めのようなサラリとした草書が多く、絵も気の向くままに描いたようなものばかりである。ぐるぐる文の馬の目皿を除いて、同じ画題や文字で量産した作品はあまりない。
石皿のような生活雑器(陶磁器や木工品)を、骨董の世界では「民芸」と呼ぶことがある。民芸は大正時代中頃に、思想家・随筆家の柳宗悦が生み出した概念である。骨董(古美術)蒐集家としても知られ、昭和十一年(一九三六年)に東京駒場に日本民藝館を開館した。
〝民芸とはなにか〟などと言い出すと、柳宗悦論になってしまうので省略するが、要はありふれた生活雑器に美を見出す精神的姿勢である。ただそれは、特に明治・大正時代においては、柳宗悦のような知識人でなければ発想も展開もできなかった思想(精神)だった。
柳宗悦は、ストレートに言ってしまえば名家の出で、当時の貴族階級に属する人だった。父の楢悦は津藩の下級武士の出身だが、御維新後に海軍に出仕して海軍省少将となり、元老院議官、貴族院議員を歴任した。和算(数学)に強く、海軍時代に日本各地の沿岸や港を測量して海図を制作した。母は弘道館の設立者として有名な柔道家、嘉納治五郎の姉である。嘉納家は摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)屈指の名家で、酒造業と廻船問屋を営んでいた。
柳は学習院高等科から東京帝国大学に進学し、哲学科を卒業した。学習院時代の文学仲間、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎、木下利玄、里見弴、長與善郎、郡虎彦らと文芸同人誌「白樺」を創刊したことは良く知られている。当時の学習院は良家の子弟でなければ入学できなかった。柳はもちろん高い知性を持った文学者だが、生まれながらのアッパーだった。
当初柳はキリスト教哲学を研究した。美術ではロダンや印象派に惹かれていた。それが大正時代中頃から日本の美術に興味を持ち始める。もちろん平安・鎌倉時代の、日本美術の基層と呼べる美にも造詣が深かったが、柳が注目したのは民衆芸術だった。
柳の偉業の一つに、江戸後期に日本各地を遍歴して数多くの仏像を彫った木喰上人作品の紹介がある。柳が「白樺」で取り上げて有名になった。浅川伯教と知り合って李朝美術にも目覚めた。当時、高麗青磁は美術品として珍重されていたが、次の李朝時代の陶磁器の評価は低かった。柳は伯教らとともに、初めて李朝美術の素晴らしさを世に広めたのである。
柳が民衆芸術に注目した理由には、手垢のついていない美の領域を開拓したいという野望があっただろう。しかしそれにはまず〝優れた目〟が必要である。生活雑器は使っている間はその美しさが見えにくい。道具である以上、便利に使えるかどうかにかしか興味が向かないのだ。その無駄のないフォルムの美しさに気づくのは、〝用〟の時代を終えた時だ。最近は廃墟がブームで写真集なども刊行されているが、人間が住まなくなり、住居(道具)としての役割を終えた建物になって、初めてドアや窓枠の面白さ、建物の奇妙な形などが目に入ってくるのである。
柳が民衆芸術に注目した時期、石皿などの陶磁器などはまだ現役で使われていた。柳はそれらを〝道具〟としてではなく客観的な〝物〟として、もっと突っ込んで言えば無心の美を発散する美術品として見た。柳と庶民の目の間の格差がそれを可能にしたのである。露骨な言い方をすれば、柳が貴族階級に属していたからこそ、彼には民衆芸術の美が見えたのである。
ただ柳の美を見る目は確かだった。柳の目によって取り上げられた物を見て、多くの人がその美しさに気づいたことがそれを証明している。その意味で〝民芸〟は柳によって創出され定着した美の概念だと言っていい。柳は骨董の世界はもちろん、美術界においても新たな美のジャンルを作り出したのである。
どんな場合でもそうだが、新たな何事かが見出される時には、その背後に必ず優れた人間の精神(目)が存在している。柳以降、民芸は美術の一ジャンルを形成することになるが、「これは柳宗悦が日本で最も美しい焼物だと称した石皿で」などと言い出すと民芸の精神は濁る。
日用雑器がすべて面白く美しいわけではない。精神を理解していなければ柳宗悦の民芸は、つまらない日用雑器をいわくありげな骨董に変えたい人のための、薄っぺらな権威指標に堕落してしまう。柳や土門拳が所蔵していた石皿は美しいが、それは彼らの精神が美しかったからである。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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