小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第032回)をアップしましたぁ。『源氏物語』第四十三帖『紅梅(こうばい)』、第四十四帖『竹河(たけかわ)』を取り上げておられます。匂宮三帖の第二、三帖です。
『紅梅』と『竹河(たけかわ)』では後の宇治十帖で起こる出来事が先取りして書かれているのですが、その理由を小原さんは『近似のドラマにする理由は、最終的にはその違いを匂わせるため、と考えられます。・・・宇治物語に向かう手前、この俗世で始末のついていない何やかやに決着をつけ、宇治十帖の前座として、似たようなことが俗な世ではこのようであると、あらかじめ示している「紅梅」と「竹河」です』と書いておられます。
「竹河」では光源氏寵愛の夕顔の娘・玉鬘が、夫であり出世の後ろ盾でもあった髭黒太政大臣亡き後の三男二女の処世に奔走します。姉の大君には帝や院からお声がかかり、蔵人少将も熱心な求婚者でした。玉鬘は考えた末、大君を冷泉院の元に参らせます。大君が里帰りした際、失意の蔵人少将が玉鬘の元に挨拶に来て、『昇進したことなど、何とも思いません。思うことがかなわなかった悲しみが、年月とともに降り積もるばかりです』と言います、
それに対する玉鬘の反応は、『うんざりする公達だこと。思うことは何でもかなうと思っている。昇進なんか眼中にないですって。うちの息子たちだって、もしお父様が生きておられたら、あんなふうに呑気に、恋愛沙汰にうつつを抜かすこともできたでしょうに』という冷たいものでした。この「竹河」の末尾に現れるほんのわずかな数行を、小原さんは紫式部の思想として読み解いておられます。
小原さんは『玉鬘の最後の一言は、「これこそが俗世」という決定的な言葉です。姫たちの「始末」とは結局のところ、愛情がらみであったとしても、彼女たちの処世につきる。息子たちの出世の遅れ・・・に悩む母親の想いからすれば、恋愛沙汰がどうこうなど、くだらない。・・・そう、玉鬘はこの若い公達に対して、「くだらん」と言い放っているのです』と述べておられます。不肖・石川も同感です。小説の思想は天上に届いてもいいのですが、その前には必ず全身俗世にまみれる必要があります。
なお小原さんは、『紅梅』と『竹河(たけかわ)』が宇治十帖の後に書かれたのではないか、作者は紫式部ではないのではないかという説に対して、『作品のアイデンティティであるテーマの一貫性を考えたときに、途中から他人が書いたと考える根拠がない・・・一貫したテーマは一人の人間の固有の思想からしか生まれないからです。言葉使いや細かい矛盾は、本人でも他人でも起こり得ますが、他人のテーマを借りることは本質的にはできない』と批評しておられます。これもまったく正しい。
作家の中には自分のアイディアが盗まれるのではないかと恐れ、作品をネット上に発表するなど剽窃してくれと言っているようなもだとおっしゃる方がおられます。ただ紙だろうとネットメディアだろうと、他者の作品を読んでインスパイアされることはよくあります。わたしたちはそれを剽窃とは呼びません。ですから剽窃とは、自分が本来持っていない他者の思想を、あたかも自分のものとして装うことです。しかしそれは難しい。剽窃した思想は必ずその化けの皮が剥がれます。小原さんが『一貫したテーマは一人の人間の固有の思想からしか生まれない』と書いておられるとおりです。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第032回) ■