世界(異界)を創造する作家、遠藤徹さんの連載小説『贄の王』(第05回)をアップしましたぁ。今回は世にも稀な艶媚孔を持つ美少女・嘉果が、いよいよ古き方々の生け贄になるために出発する章です。『贄の王』では世界(現世)は古い方々に支配されていますが、誰もまだその実体を把握していない新しい方々によってその基盤が脅かされ始めています。嘉果は二つの勢力の戦いの鍵を握る重要な登場人物です。嘉果は予定通り生け贄になるのか、それとも・・・は、コンテンツを読んでお楽しみください。
不肖・石川、作家には思想がなければならないと何度も書いています。しかしそれは、論理的な思想といふ意味では必ずしもありません。遠藤さんは、『そもそも、始まりからして常にはないことであった。あの奇態怪然たる濡巴の館は一夜にして成ったのだから。・・・貧しき民が肩を寄せ合って暮らしていた吹き溜まりのような東の地に、巨大なる神殿のごときものが飛来して、落ちた。・・・館の全体が赤黒いのは、そのとき空しくなった民草の血を吸い上げたせいだといわれもしていた』と書いておられます。このような記述が作家の思想を表現しているのです。思想の強さが試される表現だと言ってもいい。
エンターテイメント系のSFやホラー小説などでは、必ず『常にはないこと』が起こります。小説を娯楽用商品として割り切って考えれば、かなりの程度まで驚きや恐怖といった人間感情をコントロールできます。それらをあるパターンとして方法化し、複数の方法を積み重ねることで作品を量産できるやうになるわけです。そういった作品をわたしたちは大衆小説と呼ぶわけですが、読み終わってしばらくすると、淡い印象を残してどんな作品だったか忘れてしまふことが多い。図式的に言うと純文学は、読者を楽しませるだけでは決して満足できない、思想的な核を抱えている作家の作品だと言うことができます。
遠藤さんは本質的には純文学系の作家でしょうね。遠藤さんの作品ではほとんど唐突に怪異現象が起こります。怪異を起こそうとして起こす作家は必ず伏線を設定するのですが、それがない。しかし遠藤さんの作品では、どんな怪異現象が起こってもまったく不自然な感じがしません。それは怪異現象が作家の思想によって統御されており、それによって作家が表現したい思想的核の方へと物語が動いてゆくからです。作品世界の蠕動のようなものが作家の思想なのです。
文学界では純文学とエンタメ系という二極分化が進んでいますが、もちろんどちらかを選択しなければならないといふことはない。しかし読者を獲得する努力はどんな作家にも必要です。エンタメ系の作家は読者をうんと楽しませながら、その都度のものであれ、文学作品に必須のなんらかの思想を作品で表現しなければなりません。その逆に純文学作家がより多くの読者にアピールしやうとすれば、思想的核心を残しながらもエンターテイメント要素を積極的に取り入れてゆく必要がある。遠藤さんのやうに戦い続けている作家、文学金魚は大好きなのでありますぅ。
■ 遠藤徹 連載小説 『贄の王』(第05回) テキスト版 ■