鶴山裕司さんの『BOOKレビュー・詩書』『No.013 思い出のやどるところに-新倉俊一詩集『エズラ・パウンドを想いだす日』(私家版)』をアップしましたぁ。私家版ですが、新倉先生の詩集『エズラ・パウンドを想いだす日』を取り上げておられます。私家版は定価がついていない少部数の出版物といふ定義になるでせうか。
あ、でも鶴山さんの『詩誌「洗濯船」の個人的研究』は私家版だけど定価が付いてたな。「版元 軽薄才子書店」、「印刷所 鶴山房雨不負風不負庵」といふ奥付があの本の意図をよく表してたなぁ(爆)。詩書の刷り部数は平均300から500部でしょうから、私家版の刷り部数が少ないといっても、場合によっては普通の詩書と同じくらい刷ってるかも。詩書は内容が優れていれば、数十部印刷しただけでも後世に残ってしまふことがあります。北村透谷の『蓬莱曲』は現存1部ぢゃなかったかな。
鶴山さんが書いておられるように、新倉先生はエズラ・パウンドの研究者で、専門はシェイクスピア、エミリー・ディキンソンという英米詩の古典です。また西脇順三郎さんに私淑され、西脇文学研究の第一人者でもあります。学者さんもいろいろで、外国語が堪能でも日本語が優れているとは限らない。意外に日本語が不自由な先生が多いんですね(爆)。文学者は日本語は達者でも外国語・外国文学に精通した人は少ない。新倉先生は語学力、日本語力両方を兼ね備えている碩学です。新倉先生のパウンド『詩篇』、『ピサ詩篇』の翻訳の質を超えるのは難しいでしょうね。不肖・石川、パウンドを読むなら絶対的に新倉先生訳をお勧めします。
鶴山さんは新倉先生の詩集『エズラ・パウンドを想いだす日』について、『先生はエズラ・パウンドの詩法を援用されている。作者の意識の流れに沿って自在に詩行を紡いでゆく詩法である。この詩法は原理的には先生が私淑した西脇順三郎の方法と同じである。しかし詩の中に、同時代に対する厳しい批評を織り込んでゆくのがパウンド独自の特徴である。先生はこの詩法を我がものとされている』と書いておられます。また『『エズラ・パウンドを想いだす日』はパウンドの翻案詩では決してない。戦後を代表する優れた詩人たちを悼むことで、現在の詩への厳しい批判を表現した優れた詩集である』とも批評しておられます。
新倉先生はご自分は学者であるはずだ、学者であるべきだといふ意識がおありのせいか、ささやかな形でしか詩集をおまとめになっていないようです。でも内容レベル的には立派に一個の詩人の作品として成立しています。どーんと詩集をおまとめになった方が良いやうに思いますですぅ。
■ 鶴山裕司 『BOOKレビュー・詩書』『No.013 思い出のやどるところに-新倉俊一詩集『エズラ・パウンドを想いだす日』(私家版)』 ■