第1回 辻原登奨励小説賞受賞作 三澤楓『教室のアトピー』(第02回)をアップしましたぁ。不肖・石川、編集者として文学に真摯に取り組んでおられる皆様を応援しております。しかしだからこそ、あんまりバラ色の幻想を与えるやうなことはしたくないでありまふ。特に小説の世界はそうですね。小説の世界、客観的に言って詩の世界より遙かに厳しいです。
演劇・映画・テレビドラマ・小説の中心は〝物語〟であり、エンターテイメントの世界は物語がなければにっちもさっちもいきません。詩はわからんと公言する人でも物語を楽しむことはできます。つまり物語作家は自ずから大きな社会の注目と批評にさらされることになる。無名なら無名で、有名なら有名でそのプレッシャーはとても強いものです。人間の世界には競争がつきものであり、文学においても新人賞は狭き門です。しかし小説の場合、ある程度優秀な作家なら、新人賞は受賞して当然くらいに考えなければなりません。その先の方が大変だからです。
実も蓋もない言い方ですが、物語はパッケージ商品です。物語をきちんとした形でパッケージ化できる能力があれば作家デビューできる可能性は高い。しかし次のステップでは多くの商品の中での優劣にさらされることになります。より複雑な商品、新鮮な商品でなければ売れない。またパッケージ商品である以上、その製造工程にはノウハウが存在するはずであり、生産者(創作者)には量産が当然のように求められます。書けなければそれまで。作品が市場に受け入れられず、意気消沈するようでも作家業は成り立ちません。次々に新しい物語を発想し、それをたゆまずパッケージ商品化してゆく必要があります。
また小説家の場合、社会の大きな注目を浴びやすいので、賞の受賞が作家の退路を断つことになりかねない。小説は基本的に一人きりの仕事ですから、このプレッシャーはかなり大きなものになり得ます。受賞を一種のアガリとして、一般社会と隔絶された詩壇でインサイダー(詩壇構成員)に囲まれてなんとなく詩人として生きていけようなぬるさは文壇にありません。小説家はいわば衆人環視の元で試され続けるのです。
もちろん小説家・詩人に限らずすべては作家次第です。詩のジャンルで編集者がお手伝いできることは少ないので、詩人は自分で厳しく身を律していかなければならない。小説の場合、物語を通して社会と繋がっているので、他者(社会)の一員である編集者はなんらかのお手伝いをしやすいと言えます。しかし究極を言えば、詩壇と同様に、本質的には誰も助けてくれないと思い切った方が良いです。文学などという浮世離れした仕事を生業にしたいのなら、激しく努力して自分の道は自分で切り拓いてゆくしかないのです。