小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第031回)をアップしましたぁ。光源氏亡き後の『匂兵部卿(におうひょうぶきょう)』の、いわゆる匂宮三帖を取り上げておられます。小原さんが書いておられるように、光源氏ほどのスーパースターが登場しないので、『第三部は紫式部とは別人が書いた、という議論』が昔からあります。小原さんは紫式部が書いたという立場ですが、その根拠は文学とセクシュアリティの『創作者心理学』に基づいています。
最も重要だと思われる小原さんの考えを引用すると、『光源氏とは血の繋がらない薫の君の内面を中心とし、光源氏の孫である匂宮の方がその薫の君をライバル視し、真似る。つまり光源氏を超えられない光輝としつつ、その血統を絶対視していない。これは光源氏という本編の主人公をも物語全体のテーマを表現するための駒に過ぎないもの、と見切る態度である。そのようなことは光源氏を生み出した本編の著者本人にしかできない』といふことになります。純粋読者であれば光源氏は絶対的存在ですが、物語の上位審級にいる作家にとってはすべての登場人物が駒であるといふことです。
すべての登場人物を相対化して作家・紫式部が描きたかったのは、『仏教思想』に基づく世界観です。小原さんは、『源氏物語にはしばしば“幻滅”のパターンが示される。すなわち光源氏、藤壺、玉鬘など神話的に登場した人物が徐々に現実化し、それについての幻想=イリュージョンが滅する方向へと物語が動く。これは説話的なるものから近代小説へという推移を先取りするものでもある。光源氏という神話的な主人公から二人の現実的な貴公子へのバトンタッチは、このような“幻滅”のパターンに呼応する』と批評しておられます。見事な読解です。〝見事な〟といふのは、現代において『源氏物語』を読む意味を含みます。『源氏』を現代に接続させなければ、それは古くて退屈な物語に過ぎないわけです。
小原さんは『匂兵部卿』の主人公は、薫中将だと読解しておられます。『匂宮はその行動や、せいぜい性格が描かれているだけであるのに対し、薫の君はその内面が描かれている』からです。『「物語」とは文字通り、「物を語る」のであって、奇異な出来事、語るに値する出来事を語るものです。それに対して「内面」とは日記で語られるものです。・・・「物語る」ことと日記文学的な内面性、この両方をバランスをとって統合することで、それまでとはスケールもリアリティも桁違いの新しい文学 = 小説が生まれることを、源氏物語の著者だけがこの時代に予見し、実践した。・・・(薫の君の)「身体から放たれる薫香」とは、この「物語」の端緒と近代的な「内面性」を結びつけ、バランスをとるための支点、重要なキーとしての役割を果たしています』と小原さんは書いておられます。
これはまぢ卓見だな。詳細はコンテンツをじっくりお読みになってお楽しみください。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第031回) ■