谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.010 文藝 2014年(秋季号)』をアップしましたぁ。亀山郁夫さんの『新カラマーゾフの兄弟』を取り上げておられます。亀山さんは名古屋外語大学学長でロシア文学の研究者です。『謎解き『悪霊』』で読売文学賞研究・翻訳賞を受賞されています。『文藝』さんに掲載された『新カラマーゾフの兄弟』は亀山さんの小説で600枚だそうです。ん~、『文藝』さんは季刊で年四冊しか出ないですから、社運といふか、雑誌運がかかった勝負の作品掲載ですな。
谷輪さんは、『翻訳家というものは普通、こんなことをしないような気がする。もちろん翻訳家が小説を書いてはいけないことはないし、逆に小説家が翻訳を試みる場合もある。しかし、それらはそれぞれ自らの職業意識の延長線上に、ある必然として行われたことを納得させるものである。・・・翻訳家が創作に手を染めるとき、これまで手掛けたプレテクストへの深い畏敬の念がうかがえないということがあり得るだろうか。・・・乱暴な「新カラマーゾフ」にはやはり面食らうし、それは意表を突かれたといった快感からはほど遠く思われる』と批評しておられます。まー奥歯に物がはさまったような言い方ですが、不肖・石川が要約しますと、要はダメ、話しにならんといふことでありまふ(爆)。
理由は今は書きませんが、インターネット時代になって、文学の世界でも、なんでもアリの状態になってきました。一昔前は編集者は少なくとも編集を仕事としている間は物は書かない、研究者が創作に進出する際は、基本的には自己の研究とは切り離した形でそれを行うといふ不文律がありました。著者選択や本の発行権を持っている編集者はプチ権力者です。学者も専門研究ジャンルについてアドバンテージを持っている。未必の故意であれ、それを自己の創作評価に有利に働くように立ち回るのは、やめよーよといふ暗黙ルールがあったわけです。
でもそんな不文律、もう存在しません。作家として活動してる編集者は大勢いますし、学問成果をバックグラウンドに、偉い先生として作家活動しておられる学者さんもいる。これ以外にもいろいろありまふが、さすがに怒られるので書きまへん。もち、いい作品を書いていれば、どんな事情であろうと大目に見られるわけです。作品が素晴らしければ、食べていくために編集者や学者を辞められないのね、気の毒だなーといふことになる。しかしそうぢゃないから困る。なんでもアリと言っても、文学業界が盛り上がっているわけではなひ。低調の一途を辿っているわけです。あとはもう、言いまへん(爆)。
経済って、今日と明日のことです。今日どうやってご飯を食べて、明日どうやってご飯を食べるのかが経済といふものです。一週間後、一ヶ月後のことは考えない。今日明日のことが最重要です。文学の世界は経済原理で動き始めているやうです。編集者や学者だろうと名前が知れている人なら売れるだろう、弟子がいっぱいいる俳人・歌人ならウエルカム、自費出版してくれる詩人はさいこーといった感じです。しっかし文学は、100年前のことを昨日のこととして考え、少なくとも10年、20年先を見通すヴィジョンが必要とされる世界です。創作者は経済なんてしらねーよで石川はいいと思ふのでありますぅ。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評『No.010 文藝 2014年(秋季号)』 ■