於・サントリー美術館 会期=2014/07/03~08/25
入館料=1300円(一般) カタログ=2500円
評価=総評・85点 展示方法・80点 カタログ・75点
谷文晁(たに ぶんちょう)は宝暦十三年(一七六三年)に江戸下谷根岸に生まれ、天保十一年(一八四〇年)に七十八歳で没した江戸後期の画家である。祖父の代から御三卿(八代将軍吉宗が創始した三家で、将軍に子がない場合に後嗣を出す資格を有する御三家に次ぐ家格)の田安徳川家に仕える家柄だった。十歳の頃から狩野派の絵師・加藤文麗に画を学び、めきめきと頭角をあらわしていった。文晁もまた田安家に出仕し、寛政四年(一七九二年)に松平定信付きになった。定信は時の老中首座・将軍補佐であり、幕府の最高権力者だった。これが文晁の生涯に大きな影響を与えることになった。
定信は田安家初代・徳川宗武の七男だが幼少の頃から俊英として聞こえ、一時は田安家後継ともみなされた。しかし老中・田沼意次の為政を「賄賂政治」と批判したことから陸奥白川藩松平家に養子に出された。白川藩主となった定信は天明の飢饉で政治家としての手腕を発揮した。東北地方を中心に餓死者が続出する中で、定信はいち早く米の買い付けに走り、白川藩では餓死者が出なかったのだという。この業績が認められ、意次失脚後の天明七年(一七八七年)に第十一代将軍・家斉の元で老中首座・将軍補佐となった。
定信の為政は寛政の改革と呼ばれるが、徹底した倹約・風紀取締政治だった。太田南畝によって「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」と揶揄されたのはよく知られている。定信の治世は寛政五年(一七九三年)にわずか六年ほどで終わるが、引退後は文化に造詣の深い貴顕として江戸後期の文壇・画壇に絶大な影響を及ぼした。定信が文晁を筆頭に作成させた当時の国宝調査記録(図録)である『集古十種』や、文晁に模写・補筆させた『石山寺縁起絵巻』などの仕事は、今日では高く評価されている。
簡単に言えば文晁は松平定信寵愛(お抱え)の絵師だった。しかも武士であり家柄も申し分ない。この現世的威光(プレステージ)が、江戸後期の画壇における文晁の地位を特権的なものにした。もちろん文晁は優れた絵師である。現在文晁作品は市場で高値で取引されているが、存命中から文晁作品は高価で入手するのが難しかった。人々は争って文晁作品を買い求めたのである。文晁のような人気画家は、同時代では京都円山四条派の祖・円山応挙くらいだろう。では文晁作品の何が人々の心を捉えたのだろうか。
『木村蒹葭堂(きむら けんかどう)像』 享和二年(一八〇二年) 絹本着色 重要文化財 大阪府教育委員会蔵
『木村蒹葭堂像』は文晁の代表作の一つであり、現在重要文化財に指定されている。文晁と蒹葭堂は親しく、この絵は蒹葭堂が亡くなってから二ヵ月目の命日に完成したことがわかっている。江戸時代を代表する肖像画の一つで、文晁と言えばこの作品を思い起こす人も多い。一度見たら忘れられない肖像画である。蒹葭堂は面長で鼻が大きかったようだ。文晁は口を開けて笑っている柔和な姿を画にしている。恐らくそれが、蒹葭堂の人となりを最もよく伝える姿だったのだろう。故人を偲んで描かれたわけだが、余裕の感じられる画である。
木村蒹葭堂は元文元年(一七三八年)に生まれ、享和二年(一八〇二年)に六十五歳で没した大坂の町人文人である。造り酒屋の長子として生まれたが、学問好きが昂じて京阪はもちろん江戸にまでその名が知られるようになった。蒹葭堂の学問は画、漢文・漢詩、オランダ語(文化)、本草学と幅広く、蔵書家でもあったが、どの分野においても一流だったとは言えない。本筋の学者と言うより日本に初めて誕生したディレッタント(好事家)だった。ヨーロッパほど大規模ではないが、蒹葭堂の家は江戸後期の文人たちのサロンになっていた。彼が遺した『蒹葭堂日記』によって当時の文人たちの交流の様子がわかることから、近年急速に研究が進んでいる。文晁が肖像画で描いたとおりの穏和な人柄で、武士や町人という身分を問わず自邸を訪れる文人を歓待した。
『蒹葭堂像』を見れば、文晁が二十五歳も年上の蒹葭堂に強い親しみと敬愛の念を感じていたことがわかる。武士と町人という身分差はあったが二人には共通点があった。松平定信お抱えの絵師・文晁は、江戸の文人の中ではほとんど〝殿〟と呼べるような貴人だった。実際、文晁には数々の傍若無人な振る舞いが伝わっている。しかし彼は自らの社会的地位と立場に敏感だった。画塾を運営して後進の指導に当たり、絵師たちの手本となるような本を積極的に刊行した。儒者・漢詩人らの文人と積極的に交わり、日に影に彼らを助けた。平服の交わりである蒹葭堂のサロンと質は異なるが、文晁のまわりには彼を中心とした文化サークルができあがっていた。文晁も蒹葭堂も太平の江戸の世でその〝分〟を守って画業や学問に打ち込んだ人だと言える。しかしこの頃すでに、維新へと繋がる変化の波が押し寄せ始めていた。
【参考】渡辺崋山作『鷹見泉石(たかみ せんせき)像』 天保八年(一八三七年) 国宝 東京国立博物館蔵
渡辺崋山は下総国古川藩家臣で、苦労して家老にまで上り詰めた人である。厳しさを増す藩の財政再建に尽力しただけでなく、時代の変化を見越して蘭書の研究にもいそしんだ。画家としても活躍したが、崋山は文晁の高弟の一人だった。文晁は早くから崋山の才能を見抜き、自身が所蔵していた様々な古画や粉本(画の手本書)を学ばせた。
よく知られているように、崋山は幕府目付役・鳥居耀蔵(とりい ようぞう)と勘定吟味役・江川英龍(えがわ ひでたつ)の政争の結果起こった蛮社の獄で職を解かれた。蘭学を目の敵にする鳥居が冤罪をでっちあげ、開明派の江川を失脚させようとしたのである。江川は老中・水野忠邦の庇護によって難を免れたが、彼のブレーンであった渡辺崋山や高野長英らは捕らえられ、失脚させられた。崋山は密かに幕府の外交政策を批判した私文書『慎機論』を書き上げていた。これが陪臣の分を超えた国政容喙とされ、国元での蟄居を命じられたのである。崋山は文晁が没した翌年の天保十二年(一八四一年)に「不忠不孝渡辺登」の遺書を遺し、切腹して四十九歳で果てた。
文晁の『蒹葭堂像』は重要文化財で、崋山の『鷹見泉石像』は国宝である。国の文化財指定で美術品の価値を決めるのは馬鹿げているが、『蒹葭堂像』と『鷹見泉石像』に関してはほとんどの人が納得の思いを抱くだろう。どちらもヨーロッパ絵画の影響を受けているが、『鷹見泉石像』を始めとする崋山の画には彼の研ぎすまされた精神がはっきり表れている。崋山は文晁より二十歳年下だが、彼にとって江戸はもはや太平の世ではなかった。変化を真正面から受けとめようとする意志とともに、針のような緊張感が画から漂う。文晁と崋山には、明らかな世代間の精神的差異がある。同時代を生きながら、彼らの現実認識(社会認識)は大きく異なっていたのである。
『青緑山水図(せいりょくさんすいず)』 文政五年(一八二二年) 絹本着色 東京富士美術館蔵
『李白観瀑図(りはくかんばくず)』 文化年間中期以降 紙本墨画 田原市博物館蔵
『海鶴幡桃図(かいかくばんとうず)』 制作年不明 絹本着色 山形美術館蔵
着色山水である『青緑山水図』、墨絵の山水『李白観瀑図』、それに吉祥図で朝日と鶴が描かれた『海鶴幡桃図』である。これらの画を見れば、文晁がいかに幅広い技法を習得していたのかがわかるだろう。実際、文晁の画の真贋を見分けるのは難しい。同時代に存在した、あらゆる画を描いた画家だと言っていいからである。そのため真贋鑑定には、たいていの場合、署名の下に押された雅印を慎重に調べる方法が採られている。文晁はパッと見て、「ああ文晁だ」と判断できるような画家ではない。ただどの画にも共通して言えることは、文晁がとてつもなく上手い画家だということである。
一昔前まで、江戸後期の画家といえば文晁と応挙が双璧だった。しかししばらく前から伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪といった画家たちの評価が急速に上がり始めている。若冲と蕭白に関しては文晁や応挙を凌ぐほどの評価の高まりである。同時代の評価で言えば、彼らは文晁や応挙とは比べものにならない群小画家たちである。ただ若冲、蕭白、芦雪は、全盛期の作品なら一目見ただけで作者がわかる。日本の美術界は、次第に画家の個性(自我意識の強さ)を評価するようになったのである。逆に言えば江戸から昭和の中期頃まで、日本人は作品に通底する画家の個性ではなく、一点一点の画の素晴らしさを重視してそれを高く評価してきた。技術的に言えば文晁と応挙の方が、若冲や蕭白、芦雪よりも遙かに上手い。また画の出来不出来の差も少ないのである。
『文晁自像自賛図(ぶんちょうじぞうじさんず)』 制作年不明 紙本墨画 個人蔵
『文晁自像自賛図』の制作年はわからないが、剃髪しているので七十代の晩年だと考えられている。画の賛は「文晁の好きは青天米のめし/勤めかゝさずいつも朝起/文晁のきらひは雨降南風わからぬ人に/化けものはいや」という自作狂歌である。文晁の狂歌には彼の自我意識が表現されている。また狂歌という作品の性格上、そこには社会風刺意識がある。しかしその風刺は、崋山らの世代に顕著となる、あからさまな社会批判ではない。
文晁の時代には、天明、天保と大きな飢饉が立て続けに起こった。また外国船が頻繁に日本近海に現れ始め、海防の必要性が声高に叫ばれていた。文晁はそれを承知で「文晁の好きは青天米のめし」と歌っている。また「雨降」は農作物に被害を及ぼす長雨で、「南風」は古来異変の前兆とされ、漁師が嫌った風である。文晁は日常を脅かす「化けもの」が嫌いなのであり、「勤めかゝさずいつも朝起」の生活を送りたいものだと詠んでいる。文晁の風刺は為政者を当てこするものではない。不穏な世相をしゃれのめすものだったのである。
このようなしゃれのめしの風刺は、太田南畝を中心とする天明狂歌にも共通している。南畝は文晁よりも鋭い批判意識を持つ知識人だったが、為政者の逆鱗に触れる表現をギリギリのところで回避している。南畝の狂歌のユーモアは保身のためであると同時に、幕臣としての分によって生じたものである。また旗本御家人である南畝は、あからさまな政府批判をしないという共通理解が為政者の側にもあったのだと思われる。むしろ南畝の狂歌は為政者に庶民の声を伝える役割を果たしたのではないか。南畝は狂歌界のスターで文人の中心的存在だったが、一度も幕府からお咎めを受けることがなかった。文晁の狂歌にはユーモアはあるが、南畝のような毒はない。それは松平定信直下の幕臣のものである。
『枯木山鳩図(こぼくやまばとず)』 制作年不明 紙本墨画 出光美術館蔵
『枯木山鳩図』の制作年は不明だが、文晁晩年の作だと考えられている。山鳩の描き方にはヨーロッパ絵画技法を取り入れた長崎南蘋派(なんびんは)の影響が見られる。精緻で立体的な鳩や花に比べ、墨一色で一気に描かれた枯木は粗い。このように異なる画風で一枚の画をバランス良く描くのは難しい。文晁はそれまでの日本画・中国画の伝統に、新しく流入した西洋画の技法を折衷させている。この折衷技法は文晁以降の世代になると崩れ始める。いわゆる日本画なのだが、明らかに西洋絵画の技法に引っ張られた奇妙な作品が増えるのだ。文晁の東西の画法が折衷された画は危ういバランスの上に成立している。いわば徳川の世がいつまでも続くと信じて疑わない絵師が、余裕を持って西洋画の技法を取り入れた作品である。
文晁や応挙は画壇のリーダーの自覚と責任感を持って仕事をした画家である。彼らは同時代の画の技法を貪欲に吸収して後進の画家たちを指導した。また彼らはなによりも、依頼者(クライアント)の要望を満足させる完璧な画を描くことを重視した。彼らは画で自我意識を表現する必要がなかったのだと言える。なぜなら文晁や応挙が当時の画壇そのものだったからである。激しく自己主張する自我意識の発露は、文晁や応挙を仰ぎ見る、当時の群小画家たちである若冲、蕭白、芦雪ら特有のものだったのである。
『ファン・ロイエン筆花鳥図模写』 制作年不明 紙本着色 神戸市立博物館蔵
『ファン・ロイエン筆花鳥図模写』は将軍・吉宗がオランダ商館に発注した油絵を石川大浪(たいろう)が写し、それをさらに文晁が模写した作品である。オリジナルは残っていない。制作年は不明だが、寛政・享和年間に描かれたのではないかと推測されている。
文晁の時代に、いわゆる日本画はこのレベルにまで達していた。水が高い所から低い所に流れるように、文晁が体得した技術はその門下たちに伝授されていったのである。文晁や応挙といった江戸後期の巨匠の評価は、現在ではエアポケットに陥ってしまったかのようだ。一作一作は素晴らしいのだが、どれが彼らの代表作なのかは見る人によって意見が分かれるだろう。「代表作のない画家」と呼ばれることさえある。近代以降の絵画の評価軸になった画家の自我意識表現が希薄なのである。しかし自害意識表現は、日本人が明治維新以降に移入した新しい概念であることを忘れてはならない。
江戸の封建時代には、人間の生は断続であると捉えられていた。幼名があり元服後の名があり、隠居すればまた名を変えた。雅号を使うのも当然だった。南畝は狂歌師として蜀山人、四方山人、四方赤良といったたくさんの雅号を持ったが、それは現在のペンネームとは違う。武士の本業を行うかたわら狂歌や漢詩を詠むときには、武士である時とは違う生が始まるのだという意識があったのである。比喩的に言えば、文晁の画業では作品一作ごとに違う生が表現されている。文晁や応挙は、最も江戸的な絵師なのである。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■