水野翼さんの文芸誌時評『No.003 ジャーロ No.50 春号』をアップしましたぁ。新保博久さんの特別論文『怪盗と日本人スパイと少女探偵と都筑道夫の創作翻訳』を取り上げて、翻訳と日本文学におけるジャンル発生について考察しておられます。日本ではまず和歌(短歌)が生まれ、そこから物語(日記・随筆)といった散文が成立しました。中世になると和歌から俳諧(俳句)が生まれ、物語文学がますます盛んになっていきます。日本にも古来から詩と小説が存在したわけですが、やっぱ御維新以前と以後のそれは大きく質が違います。
水野さんは『誤解と反感を怖れずに言えば、日本の SF と推理小説は過去から現在に至るまで、欧米の傑作のレベルに達したことはない。それは、そのジャンル発生の源流に近いところにある作品の翻訳によってそのジャンルに遭遇し、翻訳作品を手本として外形を整えてゆく、という手法から出ることがないからだ、と端的に結論付けてよいと思う』と書いておられます。
異論はあるでしょうが、その通りでしょうねぇ。欧米のSF・推理小説の傑作を読むと、彼らの抱える〝神〟といふ概念の切実さが強烈に伝わってくることが多いです。しかし日本にそのような概念(オブセッション)はない。安部公房の『砂の女』を、欧米文学のそれと同質のSFと呼ぶことはできないわけです。決定的に質の違うなにかが紛れ込んでいます。
その理由を水野さんは『私たちが抱え得る根源的なテーマとは、私たち自身のものにしかあり得ない。テーマを翻訳し、借りてくることは不可能である。そしてジャンルとはその言語的な外形や手法以上に、最終的にはテーマによって規定されるものだ』と論じておられます。これもその通りではないかと思います。
不肖・石川は日本のSF・推理小説にも多くの傑作があると思いますが、それを欧米文学と同じ棚にジャンル分けして並べることにはやっぱり異和感を感じます。たとえSF・推理小説であっても、借り物ではない『私たちが抱え得る根源的なテーマ』が表現されている作品が日本文学の傑作です。逆に言えば欧米のSF・推理小説の枠組みを忠実になぞった作品は、たとえ面白くても日本文学としてはいまひとつ高く評価できないのでありますぅ。
■ 水野翼 文芸誌時評『No.003 ジャーロ No.50 春号』 ■