【公演情報】
演目 〈棒縛り〉、〈柿山伏〉、〈ラーメン忠臣蔵~メンマの逆襲~〉
鑑賞日 3月1日
会場 板橋区立文化会館 大ホール
出演者
茂山あきら
丸石やすし
茂山茂
茂山童司
増田浩紀
普段能を観に行く時、二つの能の間に狂言が観られる。狂言をきっかけとする笑いは能の重くて深い雰囲気を毎回少し和らげる。今回は能楽堂の舞台ではなく、公の文化会館で行われた狂言会を観に行った。能楽の舞台が仮に設置された空間は新鮮な感じがして、それに観客の中に子どもが大勢いたことにも驚いた。
狂言の大衆化に力を注ぐ大蔵流狂言師の茂山あきら氏の活動は、氏が主催する座の拠点となる京都をはじめ、日本のあらゆる地域と海外にも及ぶ。伝統芸能の普及とともに、新しい試みに挑戦することが多く、新作狂言、またはコント、オペラや現代演劇と古典芸能を融合した演劇公演を行う。
今回東京の板橋区立文化会館で行われた「笑いの座― the狂言」の番組は狂言の古典作品二つと、新作狂言を含んでいた。古典狂言の中で最も人気で、分かりやすい〈棒縛り〉という作品は、太郎冠者と次郎冠者の主人騙しの話を中心とする。主人の留守の間に酒を盗み飲みをしないよう、一人は棒に縛られ、もう一人は後ろ手に縛られる。それでも賢い二人は酒蔵に入って、主人の酒を飲みながら楽しく過ごす。主人が帰って来てからも、酔っている二人は気付かず、怒っている主人までも酒宴に巻き込む場面が大笑いを誘う。
〈柿山伏〉の展開は、修行から帰ってお腹がすいていた山伏が、柿を盗むところからはじまる。主に見つかり、山伏は柿の木に登って隠れる。鳥だの、猿だのと主にからかわれ、山伏は毎回物まねで正体を隠そうとする。しかし主に鳶なのかと言われると、物まねにはまって自分でも鳶だと思い込んでしまう。山伏は飛び上がり、木から落ちる。その後、山伏の力をからかった主もひどい目に合わせられるので、二人の争いは引き分けに終わる。
以上の作品が示すように、狂言は古くから本当は権威がない名のみの大名、疑わしい魔法の力を持つ山伏など、力を持っているふりをする人物をからかうのだ。見せかけに騙されない者は、笑いによって社会の病を明かすのである。それにしても、このような笑いをする姿勢の根本には社会を変えようとする恨みのような気持ちがなく、笑い自体が目標となる。それこそが狂言の純粋な特徴で、魅力である。
最後の演目だった茂山童司作・演出の〈ラーメン忠臣蔵~メンマの逆襲~〉は新作狂言というカテゴリーに入る。一碗の麺の上で展開するこの物語では、ラーメンのトッピングである具、メンマ、ネギ、チャーシュー、そしてとんこつスープが登場人物である。チャーシュー殿ととんこつスープ殿が喧嘩して、チャーシュー殿はラーメンの世界から追い出されてしまう。チャーシュー殿の協力がないと美味しいラーメンが作れなくなったネギ殿とメンマ殿は、うどんやそばの方への転職を検討するのだが、ラーメンの滅亡を目の前にした二人はチャーシュー殿を取り戻そうと力を尽くす。結局はラーメンの世界はまた平和になって、具は力を合わせて美味しいラーメンを作り続ける。
この作品は古典狂言とは違う面白さを見せるのだが、その面白さは分かりやすい内容にとどまらず、観客を巻き込むリズムにある。登場人物の動きや口調はリズムを作って、観客は拍手でそのリズムを支える。その上、古典的な役の輪郭をはみ出すキャラクターたちは観客にすぐに好かれるような一面を持ち、人気を集める。
しかし、面白さはあるものの、狂言よりも子ども向けのコントの味わいの方が強い。狂言の根本的な姿勢は人間同士の間に色々な差を押し付ける社会に対しての笑いであり、遊びなのだが、それはあくまで大人の遊びなのだ。
笑いの装いを纏う社会批判である狂言の真髄には本物の勇気がある。笑いを使って、現実に対する批判を表現するのだ。西洋の中世でも、大名や君主の邸に面白いことを言うピエロがいた。周りの人からはバカだとか狂っているのだとかと思われ、笑われていた。彼が被っていた帽子は君主の冠のパロディだった。つまり君主をからかっていたわけだが、平和な時代は君主自身もそれを面白がっていた。ピエロが言っていることは全て狂言、嘘ばかりだと思われていたらしいが、たまには君主よりも真意のあることを言ったりしていた。普段はそれに耳を傾ける人はあまりいなかったが、混乱の時や危機的な時期は、人はその言葉に色々考えさせられたりした。同じように、日本の伝統芸能である狂言のからかいにははっきりとした対象がある。それは一つの作品の意味や構造を考えてゆけば明らかになるはずである。
とは言っても、新作狂言の試みはとても喜ばしいことで、この芸が生きている証拠だ。しかし、もっと真剣に現実的なテーマを取り上げてよいのではないかと思われる。狂言は狙いのないただの笑いを中心とするエンタテインメントではないからだ。
新しい観客層を作るという意味での大衆化は悪いことではないはずだが、芸の形を崩すことにならないよう、注意すべきであろう。他のジャンルとの違いを意識しながら、その違いを自分の強さにすることが大事だ。特に子ども演劇との違いは明確でなければならない。これはいうまでもなく今回の公演を担当した狂言座に限らず、現代の狂言の世界に見える傾向なのだ。狂言は狂言であることをはっきりと見せなければならないので、狂言の真髄とその形を信じて、新作狂言に挑戦する方がよいのだ。狂言の新しい発展を楽しみに待っている観客は少なくない。
「the狂言」の終演後はラーメンのことばかりを考えながら大山駅に向った。結座通りの全てのラーメン屋の前に行列が出来ていた。お客さんがどんなラーメンを頼むのかは容易に想像できた。後日、私も人生初のとんこつラーメンをいただいた。目の前のラーメンの上は平和で、具ととんこつスープは仲良しで、美味しい組み合わせだった。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■