笙野頼子「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病』の(前編)」が掲載されている。圧力のかかった文章は、私小説とは何か、あるいは病と私小説について、あらためて考える機会を与える。
私小説は、自身の内面に沈潜し、それに溺れるものだ。なぜ外部へ目を向けないのか。それは、外部というものが不可知だからだ、ということに尽きるだろう。世間知が発達すれば、世の中の構造がわかり、その大多数が無関心ではいられないもの(金・地位・色)をめぐるかたちで大衆小説が書かれる。しかしそれは、恐らくはそうだろうという推測と見切りによって得られる認識に過ぎない。
生きている限り、その推測が裏切られることは、まずない。社会構造が大きく変わっても、人の欲望のあり様が変わることはない。ではそれは本当に、普遍的なものなのか。純文学作家の意固地とは、この問いへの数学者にも似た妥協のない問いかけからくる。生きている限りはそうであったとしても、死んでからはどうなのか。
しかしそもそも、死というものが不可知なのだ。とすれば、純文学はぎりぎりまで死に接近した生において、自らが知り得る自らについて、すべてを書き尽くそうとするものだ。少なくとも本来的にはそういうものであるはずで、その自らが知り得る自らとは、自身の内面にほかならない。自身の肉体ですら、自分にとって不可知なのだ。病はそれを如実に示す。
そして病にも多くの種類があり、とりわけ内面に向かわせるところのものはある。すぐさま死の淵に追いやられてしまうと、内面に向かっても言語化する時間がない。原因や治療法がはっきりしていてもまた、病を外部の敵として戦う方向に向かわせる。純文学作家であっても、その場合は執筆と切り離された、別の仕事としての「闘病」になるのではなかろうか。生きている限り、そういった雑事は付き物だ。人との接触のない単なるアルバイトとか、確定申告とか。もちろん、どんな瞬間にも、ちょっと内面に向かう隙ぐらいはあるのだが。
そして、このところの純文学的なるものは、この「ちょっと内面に向かう隙」でもってお茶を濁し、あとはよさげな外部をつまみ食いしようと、きょろきょろしているだけのように見える。そのことを一概に凡庸だと決めつけるつもりはない。外部への視線はあるのが普通で、普通だからすなわち凡庸というのではなく、純文学業界から眺められた外部が外部になってないことが問題なのだ。普通ですらない、凡庸とも言えないとすると、文学者とは単なる落伍者が世間で通る肩書きを得るための方途である、ということになる。
人間には限界があり、文学者はその限界のレベルが高い優秀さを有しているか、さもなくば限界を見つめる勇気があるか、そのどちらかでなくてはならない。私小説作家とは後者であることを自ら引き受けた者であり、ならば言語の際限ない増殖に身を任せるのは自己否定だ。病は人間に肉体があること、生が有限であることを思い起こさせる。肉体のない思考に魅力はなく、自ら無限であると勘違いする優秀さは存在しない。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■