小林エリカ「マダム・キュリーと朝食を」には、純文学カルチャーという、芸術と文化教養とジャーナリズムが突き混ぜられたジャンルの現在のパラダイム、またジャーゴンを考えさせられる。
そこには二つのもの、「放射能」と「猫」が出てくる。「光を通して過去を生きる」という猫と、その猫を待つ少女。それら生き物たちと放射能の物語である。「放射能」とは現在の純文学用語で「現代」の喩ということになっている。私たち生き物にとっての致命的な危機であるそれがしかし、より現代的な事象である「pm2.5」であってはならないのは、なぜだろうか。
あるいは現代的な事象に過ぎないからこそ、文学的身振りにそぐわない、ということかもしれない。放射能には歴史があり、「原罪」の匂いがする。「マダム・キュリー」というものが登場してくるのは、その歴史を思い起こさせるものだ。が、教科書にある自明の事実関係からの連想にあっさり従い、誰も否定はできないだろう歴史を持ち出すのは、「文学的なるもの」に接近して見えはするが、果たして文学と関わり合うものなのか。
文学においてあらゆる切実な思想基盤が見当たらない、時代の共通の問題意識が欠如している状況、いわゆるパラダイムが失われている現在、文学において(も)追認されたと思しき現代的なジャーゴンを連想で繋ぐことで、擬似的パラダイムを瞬間的に出現させようという試みは、果たしてどれほど意識的に行なわれているものなのだろうか。
たとえば「光を通して過去を生きる」のも、なぜ「猫」であって、犬ではいけないのか。犬であると、おそらくもう少しリアリズムの雰囲気の強い、別の小説になる。「猫」とはここでは、リアリティのない物語を文学に変換する装置である。何を考えているかわからないので、人の内面を投影して文学にすることができるという、日本近代文学の始まりを告げた作品への無意識的連想、文学史そのものの喩である、ということもできる。
もちろんこれは、この小説が、またその作者がどうこうというのではない。こういったものが書かれる状況は理解し得るし、それが掲載される雑誌のあり様もこの時代のものとして否定されるべきではないだろう。ただ、読者だけが見えない。読者が見えないものが書かれるのも、それが読まれるばかりに提示されるのも、すでに作家一人の責任を超え、また雑誌それぞれの見識といったレベルの話でもない。
だとすれば、もはや残された道は一つしかない。もう、それをひたすら意識的にやることだ。「放射能」が作りつつある文学的な一種の神話、「猫」に今さらの文学的アトモスフィアを担わせることを、純文学カルチャーの一員として無意識的に行うのではなく、徹底的にやることだ。もしくは一切、加担しないこと。それもまた、言うほど簡単ではない。気を許せば入り込まれ、感化される。広い世間に対しては影響力のない、読者も減りつつある内輪のカルチャーであっても、心細い書き手たちを取り込むぐらいの力は残っているのだ。いずれの方途をとるにしても、大事なのは距離感。それは「書くこと」の基本でもある。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■