三浦俊彦さんの連載小説 『偏態パズル』 (第 30 回) をアップしましたぁ。今年最後の三浦センセの作品です。不肖・石川、文学金魚管理人として定期的にアクセス傾向をチェックしていますが、最近になって 『偏態パズル』 へのアクセスが急増しております。センセのおろち学布教活動がついに実を結び始めたのかっ!。継続は力ですなぁ (爆)。『偏態パズル』 が質量ともに、センセのおろち学大全になることは間違いないでせうね。
そんで不肖・石川、三浦センセの 『私たちみんな、子どもの頃はウンコ大好きだったじゃありませんか。ウンコとかオナラとかオシッコとかヘソノゴマとか、事あるごとに口走って笑ってませんでした? それがいつしか言葉と対象とが分離し、世界は肌触りを失い、四角い制度の惰性に飼い馴らされて、不定形の流動を怖れ忌み嫌うよう洗脳されてきたのではなかったか。漫然たる価値観への反省、埋もれた意識の発掘こそ文学の任務だとすれば、文学者がもはや避けて通れぬ必須テーマこそ 「ウンコ」 なのでは』 といふ一文に、激しい衝撃を受けました (爆)。う~ん言われてみればそうかも。駄洒落ではありませぬ。
石川は凡人ですから、三浦センセの小説で勉強させていただいているのですが、人間が隠そうするものにこそ、人間精神の何らかの核心があるのは確かなようです。ある点で三浦センセの作品とマルキ・ド・サドの作品は似ています。三浦センセの描写の方がずっとおとなしい印象を与えると思いますが、その網羅性と飽くなき哲学的議論は共通しています。しかし三浦センセは、サドの作品をまったくと言っていいほど意識されていないでしょうね。サド以外の作家から影響を受けているといふこともないと思います。
つまり 『偏態パズル』 は徹底的にオリジナルな作品です。しかし 『定理:真の文学者・哲学者は、少なくともお尻フェチでなければならない』 (三浦センセの定理) といふ確信が共通した作品です。いずれにせよ社会的コードの枠内で、これだけアブナイ作品をお書きになる作家は三浦センセだけです。来年も 『偏態パズル』、楽しみでありますぅ。
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■ 三浦俊彦 連載小説 『偏態パズル』 (第 30 回) テキスト版 ■