鶴山裕司さんの連載評論 『安井浩司参加初期同人誌を読む』 『 No.018 『Unicorn』 その三 (第 3 号) 』 をアップしましたぁ。『Unicorn』 第 3 号から、大岡頌司、須永朝彦、安井浩司さんの歌仙 『窮童集』 を取り上げておられます。昭和 43 年 (1968年) 11 月に制作されたようですが、超前衛歌仙ですねぇ。今となってはある時代にしか成立し得なかった貴重な俳句文学の試みだと思います。
鶴山さんは 『根源的であり、まだ誰も見通すことのできない未来のヴィジョンを描くという意味で急進的』 な試みを 〝前衛〟 と定義されています。それはどの文学ジャンルでも普遍的に必要な試みであり、内実さえ伴えば前衛と呼ばなくてもいいわけですが、カウンターカルチャーとして有効に機能する状況なら、高柳重信のようにあえて前衛を前面に押し出して文学界を活性化するのも一つの方法です。
前衛短歌・俳句、現代詩が古びて感じられるのは当たり前のことです。60 年代から 70 年代にかけて優れた作家たちが作品成果を残し、かつその有効性が現在では薄れかけているからです。もちろん今でも新しい試みが行われていますが、それを前衛だと定義する作家は少ない。もはや前衛は文学を牽引する力ではなく、むしろ 〝前衛は損だ〟 といふ雰囲気 (アトモスフィア) が蔓延しているような気がします。
確かに前衛は現世では損かもしれません。特に定型に沿った巨大習い事市場が成立している詩の世界では、自他共に前衛作家であることを受け入れた作家が、大メディアの撰者などの仕事に就くことは難しいでしょうね。前衛指向があっても、それと大衆指導的な役割をうまく使い分けた方が得です。しかし人間は自分の仕事を無駄とは考えたくない動物です。次第にミイラ取りがミイラになっていく面があるのではないでしょうか。
文学金魚はいわゆる伝統と前衛派のいずれにも荷担しませんが、現在では充分な表現の場を確保しているとは言えない前衛指向の作家たちを応援したいとは考えています。文学界が現状を追認する保守的作家と、コウモリのような作家で占められたのではつまらない。要はバランスです。思想・詩史的な意味で、あえて自分の立ち位置を明確にする作家は魅力的です。文学金魚は面白い試みが好きなのでありますぅ。
■ 鶴山裕司 連載評論 『安井浩司参加初期同人誌を読む』 『 No.018 『Unicorn』 その三 (第 3 号) 』 ■