田中康夫「33年後のなんとなく、クリスタル」の連載第一回が掲載されている。手にとったからには、あの時代へのノスタルジーとともに、やはりどうしても読まざるを得ない。文藝賞の選考委員であった野間宏氏に、「社会的な物語を書きなさい」と言われ続けていたのに、ずっと果たせなかった、というように後記されているが、これがそれに当たるのだろうか。
田中康夫はしかしもちろん、存在としては十分に社会的になったので、それでいいような気がするが。そしてあのデビュー作『なんとなく、クリスタル』は(人の流れを渋谷から青山に変えたというような)社会現象を巻き起こしたわけで、そもそも社会的な書物だったのではないか。
思い返せば『なんとなく、クリスタル』とは、モデルで女子大生である由利の、ミュージシャンの彼とのクリスタルな(?)生活を描いたもので、プレーンな文体、内容だが、そこに大量に付いた脚注が特徴的な作品だった。脚注はすべて登場人物の内面でなく、彼らが手にするブランド品などのマテリアルに関するものだった。
つまり『なんとなく、クリスタル』は二重構造になっていて、それらのマテリアルを消費する登場人物たちに対し、脚注の視点はそのマテリアルをマーケティングする側の視点が示されている、という具合だったのだ。この作品があれほど話題となり、注目されたのは、無自覚で無邪気な消費者であった我々自身が、いかに資本主義経済においてマーケティングされ、「消費」されているかを啓蒙したからだったと思う。
この新作「33年後のなんとなく、クリスタル」連載第一回は、『なんとなく、クリスタル』の作者である「僕」がその主人公のモデルであった「由利」と再会し、当時を振り返るという、私小説的でメタ小説的なものとなっている。社会的な作品、というよりむしろ文学的な作品に、すなわち文芸誌に掲載されるフツーの作品に接近していると思うのだが。
それは我々が「なんとなく、クリスタル」という言葉で想起する、あのブランド名のオンパレードがなく、様々な固有名詞が出現するのが後半部、あの当時に言及するときになってからに過ぎないから、というわけでは必ずしもない。風俗小説的な多くのフツーの小説と、あの『なんとなく、クリスタル』を隔てていたものは、やはりあの脚注、より正確には、脚注が与えた視点だった。
それは快適な、すなわちなんとなくクリスタルな生活の中で、どんどん「個」の快楽に閉じてゆく人間の矮小化に対し、社会的なマスの視点から突きつけた批判でもあった。新作の作中にあるように、「僕」は学生時代から創刊間もない「日経流通新聞」を読んでいる。無邪気な消費生活を享受する者たちを「カモ」として捉える視点を、早くから認識しているのだ。
今後、連載が進むにつれて、脚注は復活するのだろうか。ちょっぴり意地悪なコメントも含まれていた、あの脚注こそが「社会」の実態を示そうと意図し、田中康夫が震災ボランティア、そして政治家へと転身していったことを納得させるものだったのだが。
小原眞紀子
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