「名探偵登場」というアンソロジーが組まれている。これは「13人の作家が名探偵へ捧ぐオマージュ」であって、必ずしもいわゆる探偵小説、推理小説のアンソロジーではない(ということは、読んでから気づいた。食品については、消費者に誤解を与える表示をした時点で取り締まられるらしいのだが)。
もちろん群像というのは純文学の雑誌だし、そうである以上はどんなものを読まされたところで、それこそが純文学的なる何かである、ということにしてしまって構わない。読者とて、群像などを手にとった時点で、作品について苦情を言う権利は放棄しているのだ、と承知していることだろう。そして確かに読者によっては、このような特集から、私たちがなぜ探偵小説(的なるもの)に心惹かれるのか、ということを考える機会は得られる。
私たちが探偵小説にうきうきするのは、かつて立派な謎解きに驚かされたり、すごい事件に興奮して、頭をひねって楽しんだ記憶からの条件反射に過ぎないのだろうか。だとすれば期待外れの、結構の緩んだものばかり見せつけられると、がっかりした学習によって条件反射が解かれることになる。が、存外にその「解除」はなかなかやってこない気がする。
面白い思いをさせてもらった記憶がしぶとく刷り込まれている、というのはわかる。一方で、一度読んで好みに合わない探偵小説ほど、自身と縁遠いものはない。数年後に再読し、その価値を認識するということは、なぜか起きない。
おそらく、まるで好みに合わない探偵小説とは、その「謎」のあり方そのものがピンとこないのだ。謎を謎として認識すれば、少なくともその謎が解けるまでは付き合おうと思う。謎が解ければ、カタルシスもある。しかし、その「謎」そのものに価値を見い出せなければ、誰が犯人だろうと、真相がどうだろうと、どうでもいい。
探偵小説であって、なおかつ途中で興味を失うというのは、まったくもって由々しきことなのだ。それは決して折り合うことのない相性であり、宗教の違いぐらいに絶望的だ。
一方、探偵小説を書くはずのない人々による「探偵へのオマージュ」というのは、説明のつかない期待感を持たせる。それも探偵小説であると誤解する、という計算された引っ掛けはあるものの、それは誰もが一つぐらい、しかも取っておきの「謎」を持っているはずだ、という思い込みからくるものだ。純文学作家たちなら、なおのことだ。そもそも純文学とは、そういう(ほんとは何もないにせよ)もったいぶりで成立しているのではないか。
が、そのわくわく感自体は、よきものであるから、水は差すまい。ただ、中では筒井康隆の「科学探偵帆村」は、さすがである。なんということもないプロットで、むしろ SF だが、手つきや文体によって読ませることが(本来)身上の純文学誌に載っているわけで、しかも楽しめる(!)とは。誤表示気味であっても、他の特集よりは数段いい。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■