映画『ジ、エクストリーム、スキヤキ』で監督デビューする演劇人、前田司郎と、その同級生でもある沖田修一が対談している。「映画とか演劇とか小説とか」。
この対談タイトルは象徴的であって、小説誌すばるをもって、小説は「とか」でしかない。ただもちろん、それが時代の流れの必然なら、それを非難しても嘆いてもはじまらない。そのことが何を示すのかを掴むように努力するのみである。
対談そのものは、そんなことは念頭にあるはずもない両者が楽しく語っているのであって、読んでもなかなか興味深い内容が含まれてもいる。やはり残る印象としては、若い世代にとって、あるジャンルに入門して、その道を極めるという感覚はすでに過去のものなのではないか、ということだ。とすれば、さらにそれをジャンルを「越えて」いる、という評価の仕方も、すでに過去のものということだ。
では、ジャンル性そのものが意識されていないのか、と言うと、そんなことはないのが面白い。今どきの若いもん(!)は、昔のボンヤリした文学青年と違い、ジャンルの掟というものをしっかり捉えようとしている。これを成熟と言わずして、何と言おう。
このような成熟が達成される背景は、何を隠そう、どの一つのジャンルとて、一生をそこで過ごせるように思えるような奥行きを失っている、ということにほかならない。
だから、ある道に邁進していた青年がふと我に返るか、あるいはある覚醒を経験して、ジャンルの「越境」を試みる、といった光景ではもはやないのだ。最初に表現を志した瞬間に、多ジャンルは予定されている。ジャンルそのものが「言葉」であり、どのカテゴリの集合を選び取るかが、最初の自己規定となるのだ。
まずそのようにしなければ、自身を表現する全体像の青写真を得ることはできないと、多くの創作者、表現者たちが直観している。意識として、最初から多ジャンル発進になることで、メンタリティの変化が生まれる。まず、端的に「謙虚」な感じになる。特定のジャンルの「才能」に、天賦のものとして恵まれた、という幻想はすでにないからだ。
その代わりにあるものは、自ら関わったジャンル間において、そのジャンルの必然的な掟、技術の共通点といったものを精査し、自らの「文法」を見出していこうという知的な姿勢だ。対談でも、前田と沖田は、演劇と映画においても「句読点」と呼ばれるべきものがあり、それを実感したり、体得したりといったことを述べている。技術、技法を通してジャンルへの理解を深めようとする、そのアプローチは正しい。
そして沖田は前田に、もう自分が教えること、アドバイスすることは何もない、と言い、対談は終わる。ジャンルは何であれ、そこで自身の「語法」を見出そうとする者、見出した者は、その道を極めはじめている、ということだ。どんどん歩いて行けばいいだけである。その先がすでに見えるなら、「苦節何年」という過去と同じだけのものがある、ということだ。メンタリティの変化は、時間の流れの変化をももたらしている。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■