舶来コップ五客とその収納箱 右から口径8.9×高さ10.5×底径5.9センチ/口径8.3×高さ8.8×底径6.5センチ/口径9.1×高さ10.98×底径7.4センチ(以下同サイズ) ヨーロッパ製だが生産地は不明
またちょっと『言葉と骨董』の原稿を書く時間があいてしまった。泣き言だがどうしてこんなに忙しいのだろうと嘆いてしまうほど雑用が山積みになっている。骨董エセーは比較的気楽に書けるが、ちょっとのことを調べている時間がない。しかし不定期とはいえ連載を引き受けた以上、あまり間があくと自己嫌悪に陥ってしまう。そこで申し訳ないのですが、だいたいは頭の中にある知識で書ける骨董を取り上げさせていただきます。第一回にこの連載では焼物について書くと宣言しましたが、今回はイレギュラーです。
写真は幕末にヨーロッパから輸入されたガラスコップである。明治・大正時代に盛んに作られた剣先コップのような形である。コップの胴に円筒形で先が円い窪みがある。胴を面取りにして握りやすくするめの工夫だが、この円筒形の先端が剣のように尖っているものが多いので剣先コップの呼び名がある。ガラスが厚く、手に取ると意外に重く感じられる。日本製ではこれほど重い物はない。ただし珍しい物かといえばそんなことはない。似たような物を入手するのは比較的簡単である。
このコップを買ったのは、保存箱の表に『乙丑慶應元年 舶来コップ五本入 壬乙月吉日』と墨書されていたからである。つまりコップは慶應元年(1865年)五月には日本にあったことになる。作られたのもその頃だろう。慶應は四年(68年)九月に明治に改元されるので最幕末である。すでに日米通商条約などが締結され、横浜など日本各地で開港が始まっていたが、これは従来通りオランダ船によって長崎出島経由で輸入された物である。出島の近くから類似したコップが発掘されている。
前にもちょっと書いたが、骨董好きだが僕は物フェチではない。物を読みたい、できれば対話したいのである。小林秀雄は陶磁器にはあまり目が利かなかった。しかし書画に関しては一流の目を持っていた。理由は簡単で、陶磁器は誰が作ったかわからないが、書画は作者がわかっていることが多いからである。小林は性急な批評家だ。なにをおいてもズバリと本質を掴もうとする。作家がわかっていれば本質論者小林の目の焦点は合う。しかし茫漠としていると、彼の目は虚空をさまよってしまうのである。
物を通してその本質を理解したいのは僕も同様である。しかしさすがに僕は小林さんほど浮世離れしていない。小林さんのように天平時代の陶磁を入手して、『天平の甍かぁ、千年前かぁ』と遠い目をしているうちに、買ったばかりの品物を電車に置き忘れてしまうことはないと思う。だいたいこの先生は、道頓堀を歩いていて頭の中でモーツアルトが鳴り響くお方なのだ。本質もいいが、僕はもう少し時代の手触りを理解したい。たとえば江戸元禄時代といっても、文書資料にだけ頼っていたのではその具体的姿は浮かんでこない。写真であろうと当時の遺物を眺め、数点でも手元に当時の物を置けば、確実に何かを肉体的に理解できるようになる。
骨董屋で箱入り舶来コップを弄りまわしていた時、衝撃などから保護するためにコップを包んだ紙が、古い反古であることに気づいた。全部同じ種類の紙のようだった。骨董業界用語で〝うぶい〟と言うが、持ち主が手放した時の状態のままである可能性が高いということである。骨董そのものはもちろん、保存用の箱などに文字が書かれていれば書かれているほど、物が持っている情報は読み取りやすくなる。反古紙まで調べるのかと呆れられるかもしれないが、僕は読める限りは読む。文字フェチでもあるんだろうなと思う。
反古には用済みになった帳簿が使われていた。それを見てどこから出た品物かわかった。現在も東京日本橋で事業を続けておられるマツモト交商さんの旧蔵品である。マツモト交商さんの創業は古く、江戸時代初期の寛文三年(1663年)である。三百五十年も続く老舗ということになる。江戸時代の屋号は〝いわしや松本伊兵衛〟で大店の薬種商だった。明治初期に薬に加えて化粧品の製造販売を始め、現在は化粧品原料の製造販売を手掛けておられる。反古の帳簿には『東京本町 薬種問屋 松本伊兵衛』の印が押され、収入印紙が貼ってあった。明治三十六年(1903年)頃の帳簿のようである。かなり前――恐らく明治末頃にいわしやから出たのではないかと思う。
日本は陶磁器大国だがガラス製造は不得手だった。ようやく幕末になってガラス生産が始まった。その逆にヨーロッパはガラス先進国だが、磁器生産では大きく遅れをとった。江戸時代に作られた国産ガラス製品は、現在では〝江戸ガラス〟と呼ばれて珍重されている。古いだけでなく残存数が少ないのである。陶磁器のようには大量生産されなかったためだが、脆いからでもある。江戸ガラスは素材に鉛を使っており、小さな衝撃でもすぐに欠けたり割れたりしてしまう。ヨーロッパで鉛ガラスを使ったのは中世までで、近世に入ると現在とあまり変わらない無色透明で強度の高いガラス製法が確立された。
江戸の大店薬問屋の旧蔵品だとわかると、このコップの用途がおぼろに見えてくる。江戸ガラスと同時代のヨーロッパガラス製品は、現在の市場価格では数十倍から数百倍、値段が違っている。江戸ガラスの方が圧倒的に高い。数が少ないことに加え、脆く繊細な江戸ガラスの儚さが熱狂的コレクターを生んでいるようだ。しかし江戸時代の値段は逆だった。ヨーロッパ製品の方が高価だったのである。舶来コップは液体を入れて飲むための器ではあるが、日用品ではあるまい。貴顕が来店された際など特別な時しか使わなかっただろう。いわしや松本伊兵衛のような大店でなければ入手できなかった品物である。
いわしやが店を構えていた日本橋に、加賀屋というガラス問屋があった。江戸後期の文政時代頃にはガラス問屋を始めていたようだ。江戸ガラスのコレクターなら知らない人はいない有名店である。ガラス問屋はほかにもあるが、加賀屋が有名になったのは〝引札〟を出したためである。商売熱心な店だったらしく、取り扱い商品を一枚の紙に刷って、それを今でいう広告チラシ兼包装紙として使ったのである。全部物が残っているわけではないので、江戸時代にどんな国産ガラス製品が作られていたのかは正確にはわからない。加賀屋の引札(ガラス製品カタログ)がほとんど唯一の網羅的資料なのである。
加賀屋熊崎久兵衛引札 文政十一年(1828年)頃 縦24.1×横34.2センチ
加賀屋の引札を見ると、左下の線で囲った情報欄に『江戸通り塩町東側中程 和物 唐物 蘭物 硝子 ギヤマン屋 加賀屋久兵衛 熊崎』と書かれている。加賀屋は日本製だけでなく、中国やオランダから輸入したガラス製品も取り扱っていたわけである。いわしやがあったのは日本橋本町(現在は室町に移転)で、加賀屋の店はそこから歩いて十分ほどの塩町(現在の横山町)だった。いわしやと加賀屋は密接に交流していたと考えられるので、いわしや旧蔵の舶来コップは加賀屋から蘭物(オランダ物)として購入した品物だろうと思う。
加賀屋は幕末から明治初期までガラス問屋を営んでいたので、文政十一年(1828年)から明治十四年(1881年)頃までの引札が残っている。時代ごとに掲載品の種類も変わっている。明治に近づくにつれて医療用製品や理化学用製品が増えていくのである。薬瓶はもちろん計量器や医療用の管なども作られている。わたしたちは蕃書調所はいつできたのかなど、政府(幕府)の公式資料に残った記録を歴史として記憶している。しかし今と同様、新法発布や新組織の設立といった政府決定事項は、現実の変化を後追いしたものである。人と道具の動きは常に制度に先んじている。
幕末に大量受容が始まった蘭学(洋学)は、まず兵器・医学のジャンルで発展した。幕藩体制の緩みが誰の目にも露わになり、新たな植民地獲得に燃える欧米列強の脅威が間近に迫っている当時は武器の近代化が急務だったのである。病気の治療方法が、古代から人間最大の関心事の一つだったことは言うまでもない。ずっと漢方に頼ってきた日本人にとって、西洋医学は希望の光だった。ただその普及には多くの人の協力が不可欠である。医者(蘭方医)と製薬会社(薬問屋)、医療品メーカー(ガラス問屋など)が密接に連携しなければ、知識だけでは病気は治せないのである。
ただ幕末に、現代のような学問領域(制度)が確立されていたわけではない。幕末を調べたことのある方はおわかりだろうが、この時代の知識人たちはそれぞれの学問ジャンルを超えて密に交流している。蘭学の祖は『解体新書』を訳出した杉田玄白だが、幕末に活躍した蘭方医に緒方洪庵がいる。大坂で種痘(天然痘の予防接種)の普及に努め、将軍家奥医師にまで上り詰めた人である。洪庵は漢方に精通した儒者でもあり、天文学など幅広い学問ジャンルに興味を示した。また蘭学塾・適塾(適々塾)を開いて多くの門弟を指導した。必ずしも蘭方医を育てるのが目的ではない。洪庵はこれからの世の中では西洋文化の吸収が不可欠だと見越していた。晩年には息子や門弟に英語を学ばせている。洪庵は近い将来、オランダ語ではなく英語が必須になるだろうと予感していたのである。
適塾出身者に大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介らがいる。いずれも蘭方医にはならず、政治家や教育者として活躍した知識人たちである。大村は長州藩、福沢は中津藩、橋本は福井藩、大鳥は赤穂藩と出身藩が違い、勤王派(倒幕派)と佐幕派(幕府派)に分かれることもあったが、幕末から明治の政治・文化の基礎を作った。福沢諭吉が偶然入手した杉田玄白の手稿本『蘭学事始』を翻刻して出版したことは有名だが、そこには玄白や洪庵といった、彼の先師である蘭方医への敬慕が込められている。適塾を始めとする蘭学塾は来るべき明治時代の知の拠点だったのである。
これらの人々は歴史上に名を残す偉人たちである。しかし名もなき人々の営為があったからこそ偉人たちは優れた仕事を為すことができたのである。僕の興味はどうしてもそういった微細な歴史の襞に向いてしまう。薬問屋いわしや松本伊兵衛やガラス問屋加賀屋には、いまでは忘れ去られてしまった数多くの蘭方医や漢方医が訪れて、新たな医療器具や薬を作る相談をしていただろう。そこには幅広い人的・知的なネットワークが拡がっていたはずである。そういった歴史の機微を読み取れる物が、僕にとって最高の骨董なのである。この唐津盃は味良く育ったと言いながら酒を飲むよりも、いわしや伝来の舶来コップで麦茶を飲みながら、名もなき人々の囁きに耳を傾ける方が楽しい。
鶴山裕司
■鶴山裕司詩集『国書』■
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