赤像式壺人物紋残闕 今から二千三百年ほど前の庶民の女性が描かれている (著者蔵)
とても面白い物が多いのだが、日本ではどうしても入手しにくい骨董がある。ギリシャ、イスラーム、アフリカの遺物などである。ヨーロッパでギリシャ遺物が人気なのは言うまでもない。多神教の古代ギリシャはキリスト教世界から見れば異端だが、芸術と知の側面ではヨーロッパ文明の母だからである。それにギリシャ政府は盗掘品の売買を厳しく取り締まっている。古い時代に国外流出したものしか、まず入手できないと言っていい。
もう十年以上前だが、関西で大きな美術館が開館した。日本を中心に世界各国の素晴らしい美術品が蒐集されていた。特にギリシャ・ローマ美術コレクションは出色だった。少し異和感を覚えたほどである。戦前ならともかく、2000年紀になってどうやって新たにこれだけのコレクションを集めたのだろうと思ったのである。その後、新聞でギリシャ政府から返還要請が出ていることを知った。一部盗掘品が混じっていたようだ。もちろんお金を出せばある程度の優品は買える。しかし物が市場に出なければ、いくらお金を積んでも入手できない骨董の一つである。
ギリシャ美術の魅力は、その徹底したまでの人間中心主義的表現にある。考古学調査はもちろん、現在ではDNA鑑定などの科学調査も併用して、人類発祥の地はアフリカだと断定されつつある。ギリシャは地中海を隔ててアフリカに面しているから、この地域で古代文明が発達したのは当然である。ただ地中海エリアで最も古い文明国はエジプトだった。紀元前二千年頃には既に巨大なピラミッドを建設できる財力と高い土木技術を持っていた。ギリシャで文明が発達し始めたのはそれよりも遙かに遅く、紀元前千年頃からである。
約三千年の歴史を持つギリシャ文明は、現在では八期に分類されている。ミノス文明(BC3200~1400)、ミュケナイ文明(BC1600~1100)、原幾何学様式時代(BC1050~900)はいわゆる考古時代である。文明は存在したがその詳細はわかっていない。続く幾何学様式時代(BC900~700)、東方化様式時代(BC700~600年)になってようやくギリシャ文明の輪郭が明瞭になる。幾何学様式時代にはホメロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』が成立した。
ただこれらの時代の遺品は少ない。わたしたちがギリシャ美術といって思い浮かべる陶器や石像は、次のアルカイック時代(BC600~480)、クラシック時代(BC480~323)になって盛んに製造されるようになった。アルカイック時代の彫刻はエジプトの影響を受けた直立像が多かった。しかしクラシック時代になると曲線を多用した、石像とは思えないほど優美な作品が作られるようになる。このクラシック時代は、バルカン半島からインドにまで至る大帝国を築いたアレクサンドロス大王の死去により終わった。
続くヘレニズム時代(BC323~31)はギリシャ文明の全盛期である。アレクサンドロス大王の死後すぐに帝国の分裂が始まったが、それは対立を生むと同時に人と物の動きを活発化させた。様々な文化の融合が起こったのである。陶器の絵付けは精度を増し、ブロンズや石像の造形も頂点を究めた。またこの時代には粘土を焼き固めた小さなテラコッタ像が盛んに作られた。テラコッタ像は古くからあるが、神殿に奉納するための神像などがほとんどだった。しかしヘレニズム時代になると、裕福な市民が墓などへの副葬品にテラコッタ像を作らせるようになった。神像だけでなく、当時の庶民や役者を象った像も多い。ヘレニズム時代は紀元前三十一年のローマによるギリシャ制服で終わる。ギリシャ文明はローマ帝国に引き継がれることになったのである。
男女神小像 ブロンズ 高さ4×横1.9×幅0.5センチ(いずれも最大値) 幾何学様式時代(BC900~700)(著者蔵)
だいぶ前に入手したブロンズ製の小さな像だが、恐らく紀元前九百年から七百年頃の、ギリシャ幾何学様式時代に作られた作品だと思う。向かって右側の男性の股間に大きなペニスがある。また左側の女性の方が男性よりも背が高い。男女交合による子作り(生産)を表した豊饒神だが、前文明的な母権社会の影響を残す像である。ギリシャ的な特徴を備えているが、このような簡素な造形は世界各地の古代文明に存在する。むしろどこかプリミティブな様式を保持したまま複雑化していった古代文明の方が圧倒的に多い。
たとえばエジプトのレリーフや像は時代が下るにつれて精緻な表現になる。しかし人間が動きのない立像として描かれる点は最後まで変わらなかった。ギリシャと地続きの中東ペルシャ、インドや中国といったアジアエリアの古代文明についても同様のことが言える。多くの場合、人間は動植物と共に描かれる。必ずしも特権的存在ではない。またその形は人間存在を抽象化した単純なものだった。しかしギリシャでは、アルカイック時代には既に独自の美意識に基づく作品の制作が始まっていた。
ギリシャ美術の中心にはいつも人間がいる。植物模様ははっきり装飾として位置付けられている。動物は野生の存在ではなく、神意を受けた神の使者として擬人化されているのが常である。図像が明確な意味(神話体系)を持っているのもギリシャ美術の特徴である。また陶器は別だが、人間の像(石・ブロンズ・テラコッタ製)は抽象化されない。その逆に、ひたすらな具象・個別化の道をたどっていった。
ヘラ女神像頭部残闕 テラコッタ 横3.8×高さ5.6×幅3.7センチ(いずれも最大値) ヘレニズム時代(BC323~31)(著者蔵)
テラコッタは粘土を素焼きした像のことで、これはオリンポスの神々の最高神であるゼウスの正妻、ヘラ女神を象った頭部残闕である。座像だった可能性もあるが、全身が残っていれば二十センチを越えていたと思う。ギリシャの人々にとってヘラは結婚の守護神だった。冠をかぶり、豊かな髪の毛を大きく盛り上げている。耳にはイヤリングをしている。この像は先に紹介した男女神小像の時代(幾何学様式時代)から、五、六百年後のヘレニズム時代に作られた。この像を見れば、ヨーロッパ美術の基盤になる美意識が、ヘレニズム時代にはほぼ完成されていたことがわかるだろう。
ギリシャ古代文明では、男同士の同性愛は当然だった。むしろ青年が立派な市民になるために、年上の男性との同性愛は必要不可欠とみなされていた。奴隷を労働力とした社会でもあった。他の文明と同様、失われてしまったギリシャ特有の文化や習俗はたくさんある。しかしギリシャが生み出した民主制や論理的な思考方法(哲学)、美意識などは、ローマを経てヨーロッパに受け継がれた。それは二十世紀に入り、世界のスタンダードになったのである。このスタンダードは恐らく今後も変わらないだろう。
もちろん世界には国や民族独自の哲学や美術がある。しかしそれらは世界標準的な思考と美意識を前提とした上で、守り受け継がれるべき国家・民族的特性(ローカル・アイデンティティ)として受け止められている。その意味でヨーロッパ的な知のスタンダードを取り入れた全ての現代人にとって、ギリシャは精神的母郷である。大正から昭和戦後にかけての日本では、ギリシャ哲学や神話に関する本が盛んに読まれた。それは明治維新以降に流入した世界標準的知の源泉を確認したいという、日本人の強い欲求の表れだったのではないかと思う。
海へ海へ、タナグラの土地
しかしつかれて、
宝石の盗賊のやうにひそかに
不知の地へ上陸して休んだ。
僕の煙は立ちのぼり
アマリリスの花が咲く庭にたなびいた。
土人の犬が強烈に耳をふった。
千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいところだ。
宝石へ水がかゝり
追憶と砂が波うつ。
テラコタの夢と知れ。
(西脇順三郎 詩篇『カリコマスの頭とVoyage Pittoresque』Ⅰ全篇 詩集『ambarvalia』昭和八年[一九三三年])
『カリコマスの頭とVoyage Pittoresque』は、西脇順三郎の処女詩集『ambarvalia』に収録された詩篇である。『カリコマス』はギリシャの抒情詩人で、『おお、タナグラよ』で始まる作品がある。『Voyage Pittoresque』は『絵画的旅』という意味である(新倉俊一さんの『西脇順三郎全詩引喩集成』を参照させていただいた)。『ambarvalia』は『LE MONDE ANCIEN』(古代世界)と『LE MONDE MODERNE』(現代世界)の二部から構成される。『カリコマスの頭』は『LE MONDE ANCIEN』に収録されている。僕は最後の一行の『テラコタの夢と知れ。』が大好きだ。こんなに素晴らしい一行で詩を終わらせられたら、どんなにいいだろうと考えることがしばしばある。
詩人はカリコマスの詩に導かれるように『タナグラの土地』へ上陸する。『宝石の盗賊のやうに』、『宝石へ水がかゝり』とあるように、そこは貴重な財宝が眠るギリシャの土地である。しかしなにかがおかしい。『千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいところだ』という詩行からは、ほとんど日本的な風土が感じられる。『テラコタの夢と知れ。』という最後の一行は、タナグラへの上陸も、宝石探し――あるいはその土地に財宝が眠っていること――も、すべて夢だったことを示唆している。文字通りに解釈すれば、優美で完璧なギリシャ製のテラコッタ像が見させた夢である。
西脇は明治二十七年(一八九四年)生まれで、大正十一年(二二年)、二十八歳の時にイギリスに留学した。そこでT・S・エリオットらのモダニズム詩に触れ、海を隔てたフランスで燃えさかっていたシュルレアリスムを知った。帰国した西脇は、日本で初めてのダダイズム・シュルレアリスムの本格的紹介者になった。昭和八年(三三年)には処女詩集『ambarvalia』を上梓した。この詩集はヨーロッパ的知性の始まりであり、維新後の日本の知とそこから新たに生まれた自由詩の源泉である古代ギリシャを題材にした名詩集である。ただその後の西脇は、ヨーロッパ的な知の世界に惑溺することはなかった。この詩人の知性と感性は複雑である。
西脇は戦後の昭和二十二年(一九四七年)に第二詩集『旅人かへらず』を出版した。『旅人は待てよ/このかすかな泉に/舌を濡らす前に/考えよ人生の旅人/汝もまた岩間からしみ出た/水霊に過ぎない』で始まっていることからわかるように、この詩集の主題は東洋世界を表現することにある。実際、ほとんど俳句に近い表現も含まれている。しかしそれは単純な東洋回帰ではない。西脇の中にはヨーロッパ的知性と日本的知性が同居していた。テラコタの夢と、西行や芭蕉に代表される漂泊の旅人が同居していたのである。
若い頃に欧米文学に衝撃を受けた日本の文学者、特に詩人は、思想的にも技法的にも自由詩のルーツである欧米文学に魅了されることが多い。しかしいずれかの時点で自らのアインティティを問い直す必要がある。それが遅れることは、詩人にとって致命的ダメージになりかねない。作品世界が次第に空疎なヨーロッパ模倣詩に堕していくのである。西脇はこの難しい転回を初めて意識的に成し遂げた詩人である。また処女詩集『ambarvalia』と第二詩集『旅人かへらず』の間には十四年間のブランクがある。詩人は立ち止まって考えたのである。
ギリシャ陶器残闕 サイズはいずれも最大値 ヘレニズム時代(BC323~31)(著者蔵)
(上段・左)壺台座残闕 直径4.8×高さ1.9センチ
(上段・中)テラコッタ製山羊の角残闕 横5×縦3.7センチ×厚さ1.4センチ
(上段・右)線紋付壺側面残闕 縦4.8×横6.1センチ×厚さ0.4センチ
(下段・左)酒盃把手残闕 縦3.1×横2.7センチ 陶体の厚さ0.15センチ
(下段・中)赤像式壺人物紋残闕 縦4.1×横6.5×厚さ0.5センチ
(下段・右)不明 縦4.2×横4.5×厚さ1.8センチ
これらはギリシャ陶器の残闕で、いわば盛期ギリシャ美術の〝夢のかけら〟である。ただこんな物でも入手するのは意外に難しい。買ったときにはギリシャ特有の石灰質の土で覆われていて、どんな色や形をしているのかよくわからなかった。それを彫刻刀で削り落とした。ギリシャ陶器の焼成温度は高く、頑丈に焼き上がっているので彫刻刀を使っても傷が付くことはない。下段・中の赤像式壺人物紋残闕は二つに割れていたが、アロンアルファでくっつけた。食器などで使わない限り、陶片は接着剤で接合するのがいいと思う。しっかりくっついてくれるが、熱湯で十分も煮沸すれば接着剤は綺麗に剥がれる。
陶片は第一級の資料である。これらの陶片を弄り回していると、ギリシャ陶器がいかに高い技術で作られているのかよくわかる。器体はほぼ完璧な轆轤の技術で挽かれていて、乾かした後に表面を丹念に研磨している。その上から釉薬を掛けているのだが、筆を使って丁寧に塗っている。そのため釉薬の層は薄くむらがない。他では例のないギリシャ独自の製法だと思う。このように精緻な作品は量産不可能である。ギリシャ陶器の遺品には素焼きの壺などがあるが、それらは実用品で、釉薬を掛けた作品は祭祀などの特別な目的のために作られたのだろう。あるいは一部の貴族しか使えない高級品だったと思う。
土は薄く伸ばすことができる良土で、焼くとオレンジ色に発色する。釉薬は鉄釉で、焼成すると黒くなる。ギリシャ陶器はこの土と釉薬の特性を活かして作られている。初期は釉薬を人物などの形に塗ってから、顔や衣服の線を鋭い鑿状の道具で掻き落としていた。掻き落とした箇所が白い線になるのである。オレンジの陶体の上に黒色の絵が浮かび上がるので黒像式と呼ぶ。後期になると人物などの形を残して釉薬を塗り、目や髪や衣服などを絵と同じように筆で描くようになった。黒い釉薬で覆われた器体の上にオレンジ色の素地が浮かび出るため赤像式と呼ぶ。筆を使って細部を描くので精緻な表現が可能になり、また人物の身体がオレンジ色に発色するため、ギリシャ人が好むよりリアルな表現が可能になった。
下段・中の人物紋残闕は赤像式で作られているのだが、今から二千三百年ほど前の庶民の女性である。古代ギリシャではアフロディテやニンフなどの女神を除いて、女性のヌードは描かれなかった。ギリシャ美術に女性のヌードが多いというイメージが生まれたのは、女神像があまりに優美かつ官能的で、それに刺激されたローマ人たちが盛んに模倣品を作ったからである。女性とは逆に、男、特に若い男は裸で描かれた。ギリシャ人の考える理想の肉体は若い男のそれだったのである。従って服を着ている人物はほとんど女性である。当時の庶民の女性は若い頃以外はあまり髪を伸ばさなかったようだ。陶片によく似た雰囲気の女性が描かれた壺が残っている。
【参考図版】赤像式ペリケ(水差し)陶器 高さ17.7×幅12.5センチ BC440~430 アテネで制作 イタリア・ノーラ出土
なお下段・右の四角い物体は不明としたが、ほかの陶片と一緒に泥を落とすためにお湯につけていたら、ふやけた。それなりに重いが石や陶器でないのは確実である。鼻を近づけると焦げたクッキーのような強烈な匂いがした。同じ場所から出土したので陶片と一緒にされたのだろうが、もしかするとギリシャ時代のパンのような食べ物かもしれない。審美的な価値はゼロだが、もし食べ物なら考古学的には貴重な資料である。ロマンがあることだ。食べたらオリンポスの神になれるんじゃないかと一瞬考えたが、現実はいつだって厳しい。恐らくお腹をこわすだけだろう。
鶴山裕司
■鶴山裕司詩集『国書』■
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