彩色頭俑(彩色兵士俑頭部) 高さ9.8×幅8.2センチ(いずれも最大値) 前漢(前2世紀) 著者旧蔵
もうだいぶ前に手放してしまったが、中国は前漢時代に作られた彩色兵士俑(よう)頭部である。今から約二千二百年前の、紀元前二世紀頃に作られた作品である。この連載で写真を撮ってくれているタナカ・ユキヒロ君に見せた時に、彼が撮影していたのだった。先日必要があってタナカ君が撮った骨董の全写真データをもらって眺めていた時に、この作品を持っていたことを思い出した。
中国では貴人を墓に葬る際に、俑と呼ばれる人形を一緒に埋葬する習慣があった。死後の世界で主人に奉仕する人形たちである。俑は陶、木、石、金属など様々な材料で作られたが、最も良く知られているのが陶俑である。中でも秦の始皇帝陵から発掘された兵馬俑は誰もが一度は目にしたことがあるだろう。骨董屋さんでこの作品を目にした時に、これは秦時代の俑ではないかと思った。兵馬俑を彷彿とさせる厳しい顔立ちだったからである。始皇帝陵から発掘された巨大な兵馬俑とは比べものにならない小さな作品である。しかし始皇帝陵周辺からは小さな俑も出土している。ただその後、この俑は秦より若い前漢時代の物だとわかった。秦よりほんの百年ほど後の作品なのだが、『なんだ、前漢かぁ』と思ったら気が抜けて、調べるだけ調べて手放してしまったのである。
しかし今ではちょっぴり後悔している。だいたい骨董好きなどという人種は、買えなかった優品や手放してしまった物ばかりをいつまでも覚えているものなのだ。僕が持っていた作品に出土データはなかったが、ほぼ間違いなく前漢第六代皇帝・景帝([けいてい]BC156~141年)陵墓の陽陵に隣接する、南区陪葬坑(皇帝の側近などが埋葬される墓で陽陵に南面している)から発掘された物である。始皇帝陵出土の武人俑が恐ろしく精緻であることはよく知られている。一つとして同じ顔がないのはもちろん、鎧などの武具も当時の実物を再現してある。秦に続く漢(前漢)時代になるとそのような精緻さは失われてしまうが、陽陵南区陪葬坑発掘俑はわずかな例外である。少なくとも顔の造形は兵馬俑を彷彿とさせるリアルさである。
彩色頭俑(彩色兵士俑頭部) 額部 側頭部 後頭部 髷部 (同)
* 額には陌額の跡が、耳、頭頂部、後頭部には武弁が残っている。
陽陵南区陪葬坑から発掘された兵士俑は、額部分に陌額(はくがく)という紅色に染めた絹製の鉢巻きを締め、その上から武弁と呼ばれる粗布の頭巾をかぶっていた。目鼻口を残し、後頭部も覆うようにすっぽりと武弁を被って顎の下で結んでいたのである。しかし二千年も経っているので、ほとんどの俑では陌額や武弁は朽ち果てて失われてしまっている。僕が持っていた兵士俑も、よく見ると額のところに陌額の紅色がわずかに残っている。また耳や頭頂部や後頭部に武弁の残闕がくっついている。
日本のように多湿ではなく、乾燥地帯が多い中国では布は比較的残りやすいが、改めて『二千年前の布だったかぁ』と思うとちょっと惜しい気がしてくる。それに市場で流通している発掘品のほとんどは大まかな制作時代が推測できるだけである。しかしこの作品は陽陵南区陪葬坑出土だとほぼ断定できるので、景帝が没した紀元前一四一年前後に制作された物だとわかる(墓陵は生前から造営が始まる)。具体的制作年代がわかる基準作はそれなりに貴重なのだ。すべて理解し納得した上で手放したのだが、せめて箱に僕が調べた事柄を書いておけばよかった。箱書を嫌う人もいるが、データなら何かの参考になっただろう。もう二度と類品に巡り合えないかもしれない。同手の作品が漢陽陵考古陳列館に所蔵されている。
【参考図版】彩色頭俑(彩色兵士俑頭部) 高さ12×幅7センチ 咸陽市陽陵南区20号陪葬坑出土 加彩灰釉 前漢(前2世紀) 漢陽陵考古陳列館蔵
当たり前だがある国の歴史は建国時期から始まり、その構成民族に対して大きな精神的影響を与える。アメリカではケネディ大統領の手紙などが法外な値段で取引されていて、僕らは『佐藤栄作首相と同時代の人なんだけどな』と思ってしまうのだが、歴史感覚が違うのである。アメリカは一七七六年建国だから約二百五十年の歴史である。この徳川幕府存続とほぼ同じ時間にアメリカの歴史が凝集されている。日本は文献的には約千五百年ほど歴史を遡ることができる。しかし中国はさらに長い。最初の王朝と言われる夏の遺跡は発見されていないが、次の殷王朝が存在していたのは確実で、そこから数えても三千六百年の歴史がある。当然中国独自の歴史感覚が存在する。
中国がはっきりとした歴史時代に入るのは秦王朝(BC259~210年)からだと言っていい。秦の始皇帝が初めて中国全土を統一した皇帝(ファースト・エンペラー)だからという理由だけではない。続く前漢時代に司馬遷(BC145 or 135~87 or 86)が現れ、『史記』(原題は『太史公書』[たいしこうしょ])を著したからである(BC91年頃成立)。司馬遷は秦王朝滅亡から約半世紀後に生まれた人だが、彼の時代には秦の記憶がまだ鮮明に人々の間に残っていた。もちろん『史記』は伝説の王朝・夏を更に遡る三皇五帝の神話時代から歴史を説き起こしている。しかし秦・漢時代は司馬遷が肉体感覚で捉えられる同時代だった。
よく知られているように、『史記』は『本紀(ほんぎ)』『表』『書』『世家(せいか)』『列伝』の五部から構成される。巻頭に置かれた『本紀』には、神話時代の皇帝・黄帝から、司馬遷が仕えた武帝(今上皇帝)までの王の事績が記述されている。しかし司馬遷は、秦を滅ぼしたが劉邦([りゅうほう]即位して前漢の初代皇帝・高祖となる)と覇を争って破れ、帝位につくことがなかった項羽(こうう)について『項羽本紀』を立てた。また高祖の皇后で、その死後、三代の皇帝時代に渡って政治の実権を握った呂后(りょこう)についても『呂后本紀』を書いた。
『史記』の文体は『紀伝体(きでんたい)』と呼ばれる客観的なものである。しかし司馬遷は史書は現在と未来のために書かれるべきだという思想を持っていた。歴史は複数の水流が網の目のように張り巡らされ、離散・合流することで形作られる。帝紀(ていき)である『本紀』に即位しなかった同時代の『項羽・呂后本紀』が組み入れられた理由は、そのような司馬遷の思想に基づいている。項羽が秦を滅ぼしたから高祖が前漢を樹立できたのであり、呂后の専制が取り除かれたから司馬遷が生きる比較的安定した武帝時代が到来したのである。司馬遷にとって現代史はなによりも重要なものだった。
夏から清に至る歴代中国王朝は、それぞれに魅力的な逸話を持っているが、秦・漢は特別な王朝である。その後の中国の基盤がこの二つの王朝によって築かれたからである。秦は言うまでもなく『統一者』である。現在でもそうだが、広大な国土を持つ中国は多民族・多言語国家である。しかし民族・言語を超えて、人々の中には中国は唯一の皇帝(天命を受けた王)によって治められるべきであるという思想が根付いていった。始皇帝はそれを初めて実現した皇帝である。ただ広大な国土を統治し得る絶大な武力と富を持った現実の皇帝の出現は、恐るべきものだった。
始皇帝嬴政(えいせい)は趙の国の邯鄲で生まれた。世は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓などの国々が覇権を争う春秋戦国時代であり、嬴政は秦国公子だが趙国の人質だった。皇位など望むべくもない家柄だったが、嬴政親子のパトロンだった韓の大商人・呂不韋(りょふい)の画策により、父が荘襄王(そうじょうおう)として秦王に即位することになった。嬴政は父の死去にともない十三歳で秦王に即位した。その後の活躍は言うまでもない。巧みな政治力と圧倒的な軍事力を駆使して、紀元前二二一年、三十九歳の時に中国全土を統一した。以後、始皇帝を名乗った。
始皇帝の偉業は枚挙にいとまがない。五百年以上に渡って続いた戦乱の世を終わらせたのはもちろん、郡県制を実施し、度量衡や車軸、文字の統一などを行って広大な国土を管理・運営するための基礎を築いた。その一方で始皇帝は恐るべき専王だった。自らの為政に逆らう者は容赦なく打ち殺した。北方匈奴(満民族)の侵入に備えて万里の長城を築き始めたのは始皇帝だが、駆り出された民衆の苦しみは大きかった。都の建設や、ほとんど常軌を逸した壮大な自らの墓陵建設も民衆の上に重くのしかかった。道教の神仙思想にのめり込み、国家的事業として初めて不老不死の薬を求めたのも始皇帝である。また始皇帝は郡県制に反対し、古の封建制を主張する儒者を弾圧して医学・占い・農業以外の書物を全て焼き払う焚書坑儒を実施した。これにより書教、詩経、諸子百家の書物が焼き払われ、『楽経』が永久に失われた。様々な議論はあるが、恐るべき思想弾圧として知られている。
秦に続く前漢は『立法者』である。漢は秦の制度の多くを政治に取り入れたが、始皇帝が排除した儒教を国法に定めた。中国ではいつの時代でも絶対専制君主である皇帝の権力が絶大だが、民間人の中立な立場から生み出された儒教を国法にすることで、皇帝の力に一定の歯止めがかかったのである。漢以降、歴代王朝は基本的に儒教を国法とすることになる。この秦から漢への王朝の交代によって生じた変化は、『史記』からもはっきり読み取ることができる。
客観的で単調とも言える『史記』の記述の中で、『項羽本紀』は躍動感に満ちあふれている。大男で怪力の持ち主だった項羽は部下の信望厚い名将だった。司馬遷は明らかに項羽に一代の梟雄・始皇帝の姿を重ね合わせている。始皇帝の大帝国は、若き日の彼を髣髴とさせる項羽によって滅ぼされたのだった。しかし時代の流れはもはや個の力を恃む項羽に味方しなかった。項羽に比べればということだが、冷静沈着で合議を重んじる高祖が秦に代わって中原を統一することになった。史実に基づいているが、それが司馬遷が史書を書くことで明らかにした天意としての歴史である。
権力者は本質的には行為によってその意志を示す。言葉はさほど重要ではない。その沈黙の行為を言語思想化するのが歴史家の役割である。ただ『史記』は、歴史書という枠組みを超えて中国文明そのものを規定する書物になった。孔子は『子、怪力乱神を語らず』と言ったが司馬遷もその姿勢を受け継いでいる。史記『本紀』(帝紀)は神話時代から始まっているが、あくまで人間の歴史として叙述している。公式史観としては、中国に神話時代は存在しないのである。
中国史は人間の歴史であり、その文化は文字から構成される。天地の始まりから民族や話し言葉を超えた共通の〝書き文字〟が存在したのであり、それが人間の歴史と文化を形作った。中国では王朝が倒れると都は打ち捨てられ元の原野に戻っていく。歴史は史書の、文字の中にしか存在しないのである。また中国は絶大な力を持つ王朝を中心にその文化を育んできた。孔子を始めとする儒者はもちろん杜甫や李白などの詩人もまた、権力の中枢に座を占め、あるいは弾き飛ばされた人々である。権力と無縁の知識人は中国史にほとんど登場しない。
文化も含めて中国史は多くの王朝の興亡の歴史だが、それは本質的には文字の中にしか存在していない。比喩的に言えば、中国文明を初源まで遡るとそこには『中』や『華』や『王』といった書き文字が存在しているはずである。その成り立ちを文字によって検証し、その発展を文字で考証するのが中華文明だと言える。神聖文字は存在するがそれは不可視ではない。文字の歴史を遡れば、あるいは文字で歴史を遡れば自ずからその源基に辿り着くのである。
司馬遷はそのような中華文明の機微を的確に理解していた。極論を言えば『史記』さえあれば過去と未来の歴史は解き明かせる。飽くことなく『四書五経』を研究することであらゆる思想を理解できるのである。『史記』や『四書五経』は『聖書』と同様の神聖書物である。ただ聖書が不可知の観念を文字で説き起こそうとするのに対して、『史記』や『四書五経』は一であり多でもある世界を、あくまで書き文字の探究によって総体的に認識把握しようとする書物である。
西洋と東洋の違いは演繹文化と帰納文化の違いだと言えるかもしれない。西洋では不可知のイデアが唯一の世界の中心である。これに対して東洋では世界を構成する諸要素が帰納的にある求心的を指し示す。しかしその求心点を特定することはできない。それは構造である。秦以降、中国王朝が漢、隋、唐、宋、元、明、清と一文字の王朝を連ねてきたように、求心点の呼称は変わってもその構造は維持されるのである。
徹底した現実認識によって世界の原理を見出そうとする姿勢は、秦・漢という中華文明の基礎を形作った王朝の陵墓にも見て取ることができる。始皇帝陵が地下帝国と呼ばれるのは周知の通りである。生きた人間を主君と共に殉死させる制度は秦時代には廃止されていたので、陶器や青銅などで人間や日用品が作られているが、その形や配置は現世となんら変わらない。始皇帝の圧政の記憶がまだ鮮やかだった前漢初期には厚葬が慎まれ、その規模は小さくなるが、秦時代同様、副葬品は現世そのままを写している。今回紹介した彩色兵士俑は前漢第六代皇帝・景帝時代の物であり、司馬遷は次の第七代皇帝・武帝に仕えた。司馬遷は俑に象られた生きた武人の姿を見ていたことになる。
別に中国文物大好きというわけではないのだが、南米やアフリカなど、あまり日本と接点のない文化圏の遺物には触手が動かない。妙に思われるかもしれないが、骨董を買い始めた頃、古い古い遺物を探し求めていくと、そのうち『日本』と書かれた骨董に巡り合えるのではないかと夢想したことがある。それは単なる夢で、現実には日本の古墳時代くらいの鏡を見ると、あまり学問のない職人が中国鏡を写したために漢字の記述が間違っていたりする。日本はその始まりからして実に怪しげな国家らしい。
それに比べると中国文化の骨格はしっかりしている。秦王朝はわずか15年で滅び、前漢・後漢と約四百年に渡って続いた漢が実質的にその後の中国王朝の基礎を築いたのだが、審美的な視点から言えば漢代で見るべき遺物は少ない。漆器や金工作品くらいか。まだ手放していない骨董では前漢の鏡を一面持っている。文字フェチなので文字が入っている遺物に弱いのである。
方格草葉文鏡 直径高さ13.8×厚さ0.5センチ 前漢 著者蔵
* 『天下太陽 服者君卿 見日之光』とある。
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■