6月に長編ファンタジー『銀河鉄道の彼方に』を上梓した高橋源一郎と、昨年やはり長編ファンタジー『七夜物語』を刊行した川上弘美の対談「大切なことはすべて夜に起こる」がとてもわかりやすい。
対談がわかりやすいというのは、めったにないし、どういう状況・関係でそうなるかを考えると、ちょっと不思議ではある。初対面に近くて互いの考えをよく飲み込んでいないと、話は噛み合わなくなりがちで、読んでいてもわかりやすいということにはならない。逆によく知った仲だと、これも互いにわかり切ったこととして大前提を飛ばして話すことが多く、これも読者には通じにくくなる。
言ってしまえば、対談というのはたいていその雑誌のカルチャーを形づくっている主要な書き手が、その雑誌のカルチャーをよく飲み込んでいる読者をギャラリーとしてしゃべっているので、初めて雑誌を手にとった読者にはわからなくて当たり前である。
今回の高橋源一郎と川上弘美の対談は、二人ともファンタジー小説を出しているということで、ファンタジー的なるものの前提となる話、それも基礎編といった雰囲気であった。「大切なことはすべて夜に起こる」の「夜」とはすなわち「無意識」であり、つまりは文学と芸術の前提の前提のような話で、すべては無意識から発生するということだ。が、それなのに存外(失礼)、新鮮で面白く読める。
もしかしてファンタジー小説というものは、読む者よりもまず書き手をして、ピュアな感性を取り戻させるという効能があるのだろうか。二人ともベテラン、手練れの文学者としては、無意識的なるものについてなんて、ふふん、常識、と鼻であしらうかどうかは知らないけれど、まあ、今更というところではあるだろう。しかし対談では、それを感じさせなかった。
ルイス・キャロルとかプルーストとか、あるいはジョイスとか、文学者もしくは学者が、それらプレテキストの解釈に持ち出す概念としての無意識ならば、とうに手垢がついているのだが。
作家が子供のように虚心坦懐になるというのは、もちろん読み手である子供らの感性を想定し、その目線を追いつつ物語ってゆくからだろう。数カ月、数年にもおよぶ創作の時間は、おそらくは人を若返らせ、浮世離れもさせる。作家にとっては苦しいと同時に、抜けてしまえば忘れがたく甘美な時間だ。
その時間の中で実感されたことを語る言葉であるなら、たまたまよく耳にする概念であったとしても、陳腐ということはなかろう。そもそも子供たちへの何ごとかの伝達は、そのようにして行なわれるべきなのだ。文芸誌の役割が、いまや教育ツールである部分が大きいとするならば、少なくとも教科書的な教養を媒介にするのでなく、創作の現場から直接もたらしてもらうのがいい。
池田浩
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