「谷崎潤一郎――映画と性器表象」が読みごたえがある。四方田犬彦氏による200枚の長篇評論だが、谷崎が日本近代文学最初の映画青年であったとし、その「映像的想像力」を解明するとしている。
文学が、と言うより、より端的に文芸誌のページが力を持って見えるとき、それは現在まず例外なく「映像」が介在している。どういう形でかは、一概には言えない。しかしそれは文芸誌のヴィジュアル化だとか、ファッション誌化といったこととは異なる。雑誌の中でのヴィジュアルの度合いなどが問題なのではない。文学の観念が映像に寄り添うしかないところまで来ていることが問題なのだ。
問題だ、とはいえ、それが由々しきことなのかどうかはわからない。文学の力が落ちているから映像に寄り添うしかないのか、あるいはある必然としてその方向しかないのか。四方田氏の評論を読むかぎり、それは時代の要請ですらなく、あらかじめ文学に組み込まれた DNA の発露なのではないか、という気がしてくる。谷崎という作家が、明治以降の近代文学から現代文学への流れの中で必然として現れた大作家だったことと、それは重なる。
実際、この新潮6月号をめくり、手のとまる箇所と言えば、四方田氏の評論を除けばことごとく映像とのコラボによるものだ。創作も、共同創作も、連載も、しかし力なく見えるのは映像という華が欠けているからではない。映像に代わる「確信」が欠けているからである。
したがって、映像に寄り添って力を得ようとする、というのも文学にとっては対処療法に過ぎない。文学は今、デジタル化により大容量となった映像の陰に隠れているが、恐らく復活を遂げるときには、映像を規定する観念を抱えているに違いあるまい。
その日が近いのか、遠いのか、それは何とも言えないが。そのときには少なくとも、“目に見えない” 文学的権威とか文学的幻想、アトモスフィアとかは、霧散しているのではあるまいか。つまりは、それにしがみついて細々と生きる商法は成り立たなくなってしまう。物書きも、そして出版社も。
谷崎潤一郎には二つの側面がある。一つは、あまり本を読まない輩にも面白おかしく話のタネにされるようなマゾヒズムの作家という面であり、もう一方では源氏物語を現代語に訳し、その現代版と言えるような「細雪」の執筆など、日本文学の基底を窺おうとする原理主義的な面である。だがこれらを「二つの面」と言ってすましているようでは、谷崎潤一郎という作家の全体像はつかめまい。
谷崎の「映像的想像力」を解明するとした四方田氏の評論は、その内容以上に、もしかするとそのアプローチの方向にさらなる可能性が含まれているかもしれない。文学史上重要な、一人の作家の全体像を捉えようとする試みは、この時代における文学の全体像を相対化することに繋がり、その方向性を模索する方法論についても、何らかの寄与をすることになる。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■