創刊80周年だそうで、その特集である。まずはめでたい。創刊しては廃刊となり、という昨今のマガジンの状況で、80年も続いた雑誌というのを考えただけでも、ちょっとめまいがする。
めまいというのは脳内の混乱をも、示してないことはない。80年続く雑誌、という概念自体、千代に八千代にと同じくらいあり得ないというか、語義矛盾にも響く。雑誌とは状況を切り取るもので、80年ともなるとそれは状況というより歴史だ。だからこそ特集では、その歴史を振り返ろうとしているのだろうが。
もちろん、創刊して間もない雑誌がすぐに廃刊になるのは、売り上げもさることながら、それも含めて創刊の理念というか、コンセプトがちゃんと詰まってないということがあろう。売り上げでも内容的にも、今は文芸誌にとっては氷河期に近いが、その中でも先に倒れてゆくのはやはり理念が弱いとみられ、また歴史も浅いところだと踏まれる。
グラビアを見るかぎり、しかしこれらの「文藝」たちは、同じ雑誌なのだろうか、とは思う。倒産したり休刊したりを経つつ、名前が同じ雑誌が連綿と続いてきたそのことは感慨深いが。
長く続くことは、それだけ強力な理念を持っているとみなされるわけではあるが、むしろ時代とともに何ら理念もこだわりもなく、変化してゆくものの方が、少なくとも名前だけは残る、ということもあろう。そうしてまで残していきたい「名前」とは、では何なのか。
文芸誌がすべて、まあ文學界だけは残るだろうが、なくなってしまったら、やっぱり寂しいだろう。たとえ若い書き手たちの仮想敵か反面教師としてでも、文学的アトモスフィアを信じている旧い感性の人々と、信じているふりをしている編集部というのは、あってもいいと思う。しかしそれはもっぱらこちらの勝手で思うことで、当の出版社が何を思って続けているのかは、よくわからない。
もしそれが「文学」というものを、何が何でも残していかなくてはならないのだ、という使命感からであるならば、その方法が適切かどうかは別として、共感はするし、応援もできる。でもそれなら、なぜここまでの体たらくになるのか。
雑誌でリアルタイムに読む必要があるのは、単行本化されるとはかぎらない新人作品ぐらいだが、新人賞を獲っても受賞後の第一作が載らない、というのはどういうことか。新人使い捨てどころか、新人賞のやり捨てだ。それら新人賞受賞作家たちは、文学金魚も含む各所に作品を持ち込むしかないが、新人賞を獲る前よりも苦しくなる。金魚にしたって、あたらめて文学金魚新人賞(仮)を受賞させるわけにもいかないだろう。
赤字が拡大して人員を削るのは仕方ないにしても、文学への情熱で続けるなら、そこにいるのは文学への情熱のある少数精鋭の編集者たちであるはずだ。それでなぜ、各誌の編集長がことごとく女性なのか。
女性が編集長であること自体が悪いと言っているわけでは、もちろんない。だがこの文芸誌各誌の長が女性ばかり、しかも文芸誌の内実が揃いも揃って史上最悪という眺めは、文学の状況なんぞよりも、むしろ女性の社会進出そのものに対するイメージを激しく損なう。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■