生誕100年 藤牧義夫
於・神奈川県立近代美術館鎌倉
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/ExhibitionTop.do
会期=2011/01/21~03/25
入館料=700円(一般) カタログ=2000円
評価=総評・80点 展示方法・80点 カタログ・80点
神奈川県立近代美術館鎌倉館は、鶴岡八幡宮の境内にある。八幡宮の正門から入っていくと左に折れた裏手の方にあたる。平家池に張り出すように建てられたカマボコ型地上2階建ての建物で、国立西洋美術館によく似た典型的なモダニズム建築だ。それもそのはずで、設計はル・コルビジェの弟子の板倉準三である。竣工は昭和26年(1951年)で日本で最初の公立近代美術館である。東西を問わず近代美術の優品をコレクションしているが、現在は美術批評家の水沢勉氏が館長を勤めておられる。中央の国立美術館では扱わない、マイナーだが優れた作家の展覧会を開催する特色ある美術館である。
今回は『生誕100年 藤牧義夫』である。藤牧は明治44年(1911年)に群馬県館林市で生まれ、上京して版画家として活動したが、昭和10年(35年)、24歳の時に、版画家の小野忠重(ただしげ、明治42年[1909年]~平成2年[1990年]、享年81歳)を訪ねたあと、突如行方不明になってしまった作家である。家族らが手を尽くして捜索したがなんの手がかりも得られず、13回忌に当たる昭和22年(47年)に藤牧家の墓に義夫の戒名が刻まれた。大多数の若い芸術家と同様、藤牧も苦しい生活を送りながら創作活動を続けていた。昭和8年(33年)には帝展に入選したが、それによって作品が売れるようになったわけでもない。ただ藤牧は昭和8年頃から失踪する昭和10年までの期間に非常に旺盛に仕事をしていた。彼の作品で傑作・秀作といえるものはこの時期に生み出されている。精神的に不安定だったのかもしれないが、それにしても不可解である。失踪の謎は今後も謎のままかもしれないが、藤牧が残した作品には力がある。とにかく『生誕100年』展が開催されたことを、藤牧のために喜びたいと思う。
『赤陽』昭和9年(1934年)5月以前制作 縦41.5×横28センチ
『つき』昭和9年(1934年)4月以前制作 縦12.7×横12.8センチ
僕が藤牧の名前を記憶したのは、代表作『赤陽』によってである。乱暴かもしれないが、この『赤陽』と『つき』の小品2点によって藤牧は美術史にその名が残ったのだと言っていい。藤牧は好んで都市風景を版画の題材にしたが、そのほとんどがきっちりとしたモダニズム風の構図のものである。しかし『赤陽』と『つき』などは異なる。荒い鑿跡が示すように、これらは短時間で一気に仕上げられたのだと思われる。『赤陽』の中央を走る道路は、藤牧の中に渦巻いていた何かが一気に溢れ出した痕跡のようだ。『つき』も異様な形をしている。『月』なのか『突き』を意味するのかは断定できないが、ある対象を彫ったのではなく、奔放な鑿跡によって月に似たなにかの形を表現している。『赤陽』の一点の赤も『つき』の青も強い印象を与える。この2作は激しく魅力的だ。多くの優れた美術品に触れた時と同様に、僕らは素晴らしい作品だなと眺め回した後に、でもなぜこんな表現なんだろうと、どうしても考え始めてしまうのである。
藤牧家は代々館林城主・秋本家に仕えてきた武士の家系である。義夫の父・巳之七(みのしち、安政4年[1857]~大正13年[1924]、享年67歳)は12歳で藩の小間使いとして出仕したが、維新後は教職に就き、定年後は前橋地方裁判所所属の司法代書人を務めていた。義夫は巳之七の後妻・たかの子供だが、たかは義夫が2歳の時に病没した。当時義夫には1人の兄と4人の姉がおり末っ子として可愛がられて育ったが、巳之七も義夫13歳の時に亡くなった。生前、巳之七は雅号・三岳の名でさまざまな書画を書き残した。義夫に絵の手ほどきをしたのは巳之七だろう。義夫は相当に父を慕い尊敬しており、巳之七の死後、絵入りで父への思いを書き込んだ手作り本『三岳全集』(大正14年[1924年])と『三岳画集』(昭和2年[27年])を作った。それだけではない。昭和9年(34年)1月に義夫自身が撮影した東京の下宿の三畳部屋写真には、突き当たりの壁に巳之七の写真が、右手の壁いっぱいに義夫が描いた巨大な巳之七の肖像画が飾られている。いくら父親思いとはいえ、この写真は異様な印象を与える。祖先や父親崇拝とは限らないが、義夫の中に強い信仰心が流れていたのは確かである。
『藤牧義夫撮影自室写真』昭和9年(1934年)1月 縦4.4×横6.6センチ
藤牧は昭和9年(1934年)に全三巻からなる白描絵巻を描き残した。白描とは影を入れずに墨だけで描いた素描で、第一巻が『浜町公園から相生橋まで』、第二巻が『申孝園』、第三巻には『隅田川絵巻-白髭橋から西村勝三像周辺まで』が描かれている。藤牧は「私どもは川が山奥の木の葉と木の葉の間から流れ出て(中略)末は巨艦の浮ぶ水平線の彼方へ没するのを思ふとき、そこに運命といふか、人世といふか何か人格化された生活の流転相を浮べて来る。これは独立した一枚版画よりも連作版画とか、筋を追った版画とかの組織的製作でなければ現はせない」(『新版画』第16号「都市貫流特集号」昭和10年[1935年])と書き残しているので、白描絵巻は将来着手するはずだった連作版画のためのデッサンだったと推測される。ただ藤牧が源流からの流出ということに興味を持っていたのは示唆的だと思う。第一巻と三巻は川沿いの風景という意図で描いているようだ。真ん中の第二巻『申孝園』だけが庭園風景だが、この巻が白描絵巻の中心だという意識が藤牧にはあったのかもしれない。
申孝園は東京江戸川区にある、法華宗(日蓮宗)系の新興宗教団体「国柱会」本部の庭園の名称である。武士だった藤牧家の菩提寺は曹洞宗だが、義夫は国柱会に入会し熱心な法華経の信者になっていた。言うまでもないが、宮沢賢治も国柱会会員で真摯な法華経信者だった。戦前の国柱会の思想的影響は幅広いものであり、関東軍作戦参謀として満州事変を主導した石原完爾(かんじ)もまた熱心な国柱会会員だった。軽々な推測は慎むべきだとは思うが、賢治と同様に、藤牧には法華経への帰依による密教的な幻視・幻想的傾向があったのではなかろうか。法華経は無の漆黒の中に一点の光が現れ、それが大日如来となり、その言葉(真言)から世界の生成を夢想する光と流出の宗教である。
僕は人間は人間存在に関するプロであり、人間は人間が創作した作品に微細な差異と特徴を読み取る能力を備えていると思っている。藤牧の『赤陽』や『つき』には通常の版画作家とは異なる何かがある。幕末から明治初期の浮世絵系作家の版画と一線を画しているのはもちろん、版画を日本画と同質の近代芸術に高めようとした棟方志功らの作品とも異質である。藤牧の『赤陽』や『つき』は、鑿使いは荒いが確信的に刻まれており、色の置き方にも迷いがない。それは鑿痕自体が聖痕であるかのような、一種のイコン(聖画)を思わせる。
評価、展示方法、カタログともに平均点の80点にしましたが、決してメジャーではなく、これからも超有名版画家には恐らくならないだろう藤牧の回顧展は貴重でした。ただ展示内容にもカタログにも、あまり目新しい情報がなかったのが少しだけ物足りませんでした。なかなか言いにくいことですが、今日では藤牧の死後に、何者かが相当量の藤牧作品の贋作を制作し、元の版木に手を入れた物を藤牧作品として流通させたことがわかっています。展覧会もカタログもそれには触れていませんが、関係者のほとんどが死去してしまった現在、藤牧贋作事件についてもある程度の説明があってもよかったのではないかと思います。この問題についてはまだ研究中で、いずれ改めて藤牧展が開催されるなら、それはそれで喜ばしいことです。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■