金井美恵子の「お勝手太平記」。もちろん谷崎潤一郎の『台所太平記』を踏まえたタイトルだろう。金井美恵子には『恋愛太平記』という作品もあった。
金井美恵子と歴史小説ほどそぐわないものはない。「太平記」というネーミングにかぎっては、それほどちぐはぐに感じない、というのは「太平」の語がもたらしていることに間違いはない。金井美恵子の小説は基本、プロットがなく、ドラマチックなものがない。いわゆる会話体が鍵かっこ付きで並ぶ、という小説的な制度とも折り合わない。そういうスタイルが出来上がっている以上、いまさら金井美恵子にプロットだの会話体だの、フツーに持ち込まれても困惑する。
そこにあるのは、細部まで浸透した「金井美恵子らしさ」である。本質的に、すべてが独白調だと言ってよい。その意味では私小説の系譜と言えるのだが、日本純文学の王道たる私小説のようなエゴの肥大化があるか、というと、それもない。金井美恵子の小説で独白を続ける自我は肥大化することなく、かといって縮退することもなく、「子供」のままに留まっている。
20歳でのデビュー時はともかく、後年は当然のことながら、その視点は成人のものに設えられてはいる。が、社会性を拒絶した青年のものから始まり、社会性を持ち得ない中年男性であり、しかしやはり最もはまるのは、もとよりそんなものとは無縁のおばさんたちである。
このおばさんたちの独白 = 手紙であるところのおしゃべりは、おばさんたちにとっての社会性を排除されているぶん、ハイブラウであるというか、テキスト・クリティックなのである。一歩間違うとハイブラウどころか、気の狂ったカルチャー・センターおばさんたちの反吐の出そうなひけらかしに堕する。その一歩を間違えるか間違えないかは、まごうことなき「金井美恵子らしさ」が細部にまで見出せるかどうか、にかかっている。「金井美恵子らしさ」さえあれば、我々は地にひれ伏すのだ。金井美恵子だから。
金井美恵子にひれ伏すのは、あの頃はいい時代だったとはいえ、かつてのちょっとおっかない天才美少女の面影をすり込まれたおじさんばかりではない。現在、4、50歳代の女性の書き手は、想像以上の多大な影響を受けているという。まさしく「金井美恵子神社」がなくてはならないらしく、金魚屋関係では長岡しおりさんも小原眞紀子さんも参拝すると言う。あの小原さんが「あたし、天地神明にかけて金井さんには逆らわない」って言うんだから、絶大なものだ。なんでなのか、よくわからんところがまた神様っぽい。
彼女たちは、金井美恵子神社のご利益をこうむっている女性作家は、すぐ嗅ぎつけるのだそうだ。江國香織さんはたぶん、その際たるものだそうだが、それはたしかに理解できる。
キーワードで説明するなら、子供らしい孤独とか、世界への透明な視線とか、言語的な観念性とか。それらによって満たされているから、プロットなんぞはいらないっちゃ、いらないんだろう。ただ岸辺のない、永遠の太平なエクリチュールの海があるべきなのだ。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■