今回は、福岡在住の女の子ラッパーもとい「ラップをしちゃうふつうの女の子」泉まくらのデビューアルバムから一曲を取り上げる。彼女については、謳い文句の通り、ふつうの女の子のふつうの生活から染み出てくるような〈ふつうのことば〉の歌詞世界と、どこか奔放なラップが方々で話題になっているが、今回取り上げる曲はある意味とてもスタンダードな「春のうた」である。
本作を収録した『卒業と、それまでのうとうと』にはある仕掛けが施してある。歌詞カードに記された歌詞の一部がそれだ。
★あしもと濁る薄い花びら
自分を重ねて怖くなったのは
大人が急にもう子どもじゃないと
選択と決断をぼくらに迫った頃
明日目が覚めればネクタイの結び目の仕組みを知る
戸惑いの中置いてきぼりの春が来る
(ああ 待って 今だけ)」
これはサビにあたるリリックで、およそ5分半の曲中に3回繰り返される。あとの2回の部分には ★Repeat と表記されている。ところが、泉まくらはその通りにはうたわない。曲を聴きながら歌詞を追うと、3回目のリピートでリリックの一部がアレンジされているのに気づく。5行目だ。
「でも明日目が覚めたらネクタイの結び目をほどき走る」
こうしたアレンジはライブコンサートなどではよくあることだし、〈あそび〉として楽しめばいいのかもしれない。しかし〈あそび〉は先行する原曲があるから〈あそび〉として成立するのだ。ここで原曲というのは、ふつう、新曲としてCDなどの音源に収録したものを言う。では本作の場合、CD付属の歌詞カードに〈書かれたことば〉と歌の中で〈うたわれたことば〉は、どちらが原曲となるのか。無論どちらも公式に原曲だろう。よってこの〈ことば〉の不一致は、ただの〈あそび〉には収まらない。 真偽の区別のない〈二重のことば〉が、同時に聞き手に届くのだ。それは聞き手に何をもたらすのか。聞き手はそれをどのように受け止めたらいいのか。
いわゆる桜ソングの、卒業と別れの寂しさや新しい世界へ飛び込む期待、そういうハレバレしさになじめない〈ぼくら〉がこの歌の主人公だ。肉体と年齢の着実に「大人」に近づいていく速度と、それとともに否応なしに自分を組み入れていく社会制度の手回しの早さについていけない。それでもついていくほかないが、遅れていく〈ぼくら〉を顧みることのない春の熱狂がいやにさびしい。この歌を繰り返し再生するとき、聞き手は現在あるいは記憶の中の〈ぼく〉の声を、泉まくらのつむぐ〈ふつうのことば〉の中に聞き取ることだろう。
そして3回目のリピートの5行目にさしかかり、聞き手は〈二重のことば〉に出会う。〈書かれたことば〉では〈ぼくら〉は明日組み入れられる制度にベッドの中でおびえている。しかし〈歌われたことば〉において〈ぼくら〉は制度を克服する。「結び目をほどく」逸脱もおそれず、〈ぼくら〉の決断は、流されるままの自分と訣別しようとする。いままさに戸惑いの春を迎える聞き手なら、きっと勇気づけられる一行だ。ただその勇気を、彼女が迫ることはない。
どちらの〈ことば〉を聞き取るのかは、聞き手の自由に任されている。それはだれよりも、いままさに「戸惑いの春を迎える」聞き手のために用意されたリピートの自由だ。「ネクタイの結び目をほどいて」一緒に走り出すのに、この5分で足りなければ次の5分へと、聞き手は何度繰り返してもいい。何度繰り返しても彼女の〈ことば〉は、〈ぼくら〉に何も押し付けず、より添っていてくれるだろう。 そうして〈ぼくら〉歌詞世界の当事者に、決断を先延ばしにして、ためらうことを許している。
「あと数ページめくってしまえば、一緒になにかも終わる気がしてる」
ためらいとやり直しへの願いをひそませた〈書かれたことば〉は、最後のページに近づいた本のイメージに具体化してあらわれている。一冊の本と5分半の歌詞が等価に結ばれている。なにかを終わらせることをためらううちは、最後のページを開かなくてもいいのだと、〈書かれたことば〉はもう一度最初の一行から再生される。リピート機能で自動再生するとよくわかる。トラックの最後と最初は少しの無理もなく接続される。
決断を勇気づけてくれる音楽は無数に存在する。ためらいの日常をうたった音楽も無数にある。それらは、決断のときやためらいの間に、何度となく聞かれはするだろう。しかしためらいから決断にいたるまで、無限にリピートし続けることはできるだろうか。泉まくらの歌はどこまでも聞き手に〈より添うことば〉によってそれを可能にする。そしていつかリピートが止み、〈うたわれたことば〉が聞き取られるならば、〈ぼくら〉の声も彼女とともにうたっていることになる——いままさに、どこか登下校の路上や、お風呂の中、カラオケで、ためらいぬいた〈ぼくら〉によってあの一行が選択されるのだ。
* 『春に』by泉まくらは1stミニアルバム『卒業と、それまでのうとうと』(2012)に収録
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