「日常は謎に満ちている」という、わかったようなわからないような特集である。揚げ足をとる気はないが、この5月号の誌面も、謎といえばやや謎である。
まず、ちょっと茫然とするのは、巻頭のグラビアだ。文芸誌の一般誌化、ヴィジュアル化は今に始まったことではないが、「読書美人」といったアイデアは自ら文芸誌をパロディ化しているようで、ポストモダンである。そうだよね、グラビアにはグラドルがいなくては。誰がむさ苦しいオヤジの書斎なんか、見たいものか。
そしてインタビューは、主演映画が公開の岡田准一と錦戸亮という、そろってジャニーズの二本立てである。グラビアにはグラドル、インタビューにはアイドル。弁明としては、グラドルは水着でなくて、アナウンサーという「知的」?なもので、しかも「読書」している、と。アイドルたちはすでにトウが立ち始めていて、「知的」にならざるを得ないものである、と。だとしても、この風景が文芸誌自身の自己否定に映らないわけはない。
そして、だからといって何も悪いわけではない、というのが、最も発見すべきことなのだ。文芸誌が自己否定しようと、消えてなくなろうと、別に世の中はどうもならない。巻頭に置かれるグラビア記事の位置づけなど、雑誌というカルチャーのインサイダー以外には関わりのないことだ。雑誌インタビューで意味のある質問など、ほとんどされたためしもない。
そういうことを自覚していると思しき誌面は、昨今の勘違い編集者が跋扈している状況にあって、かえってなかなか「知的」に見えもする。「文芸誌が消えてなくなろうと」と、言ったところで、それは野性時代みたいなサブカルチャー誌はそんなものだが、文壇を背負って立っている○○誌は別だ、というところから一歩も出ないという連中はいる。が、彼らこそが時代の知性から最も遅れ、取り残されていることは言うまでもない。
はっきりさせるべきなのは、どんな老舗を自負するものであれ、文芸誌が滅びることは、別に文学が滅びることと同一なわけではない、ということだ。誰かにとってあらまほしき文学の「器」が形を変えることで、大騒ぎすべきと考えるのは傲慢というものだ。
しかしそのことが浸透し、目にも耳にも馴染むまでには時間がかかる。それまでは、いかにも不可思議なことが進行しているかのように感じられるだろう。まあ、一口に言えば「謎」だ。
謎とは要するに、芯がつかめないことである。つかめない以上は、外側を撫でたりなぞったりしているしかない。グラビアに創作者の書斎の写真を載せようなどというのは、つかめていないことに対する自覚が足りない。「読書する側」を、それもその読者の「ルックス」を俎上に上げるという馬鹿馬鹿しさこそが、知性の発露の第一歩に違いあるまい。さすがサブカルチャー誌の「老舗」、野性時代ではある。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■