7月号には西村賢太氏が、No.005で取り上げた『棺に跨がる』の続編(連作と言うべきか)である『脳中の冥路』を書いておられる。西村氏は現在最も『文學界』的な私小説作家である。良い悪い、好き嫌いは別にして、純文学と呼ばれるジャンルは私たちが思い浮かべる普通の小説ではない。作家の思想を体現する主人公がいて、それに揺さぶりをかける脇役が登場し、事件が起こり一応の解決に至るプロット(筋立て)のある小説ではないのである。逆に言うと主人公や脇役、プロットなどの小説要素に一般小説とは異なる操作を加えてやれば純文学作品に近づくことになる。中には前衛的と呼ばれる作品もある。
ただ小説と呼ばれる表現の器は恐ろしく堅固なのだ。小説要素を操作して純文学、あるいは前衛的作品を作り上げたとしても底辺は揺るがない。その形式の堅固さはほとんど俳句に近いものがある。金魚屋では『安井浩司墨書展』に関連して様々な方が評論を書かれているが、俳句とは俳句形式との闘いであるという認識が示されている。形式だけ見れば、小説形式も俳句形式同様に動かしがたいものである。
実際、伝統俳句に対して前衛俳句がマイナーであるように、純文学は小説界ではマイナーな存在である。しかしいわゆる小説〝文学〟として世の中の尊敬を集めているのは一般小説ではなく純文学である。この純文学にも歴史的変遷がある。漱石・鷗外といった文豪の作品が現在の純文学のベースになっているわけではない。現在の純文学は、後期芥川龍之介の私小説が基盤になっている。『文學界』は芥川賞によってその基盤を継承しているわけである。少し皮肉な言い方をすれば、巧みなメディア操作によって、純文学は私小説系の作品だという刷り込みに成功したと言ってもいい。
「あたしの体のぐあいがこうなのに、焼肉だもんね!」(中略)
「ああ、うるせえや。もう分かったよ、黙れ馬鹿女」(中略)
この、どこまでも人を小馬鹿にした態度に、貫太は身中にじわりと暴力の衝動を覚え、我知らず音高く舌打ちを鳴らした。
しかし一方で(中略)かような秋恵とのやり取りが、(中略)確かなるコミュニケーションとして、ただ下手に出てたときにはついぞ感じることのなかった或る手応えのようなものを、確と心に響かせてくるのである。
だがその感慨も束の間、貫太は先の自分の物言い(中略)が、秋恵との関係修復にさらなるマイナス作用を及ぼすものだと気が付くと、これに俄かに狼狽を覚えた。
そして、この狼狽の依って来たるところは、ひたすらの不安からであることを悟ると、彼はタクシーに乗るのをやめて、踵を返すや南北線の降り口の方に急ぐのである。
(西村賢太氏『脳中の冥路』)
主人公の貫太は、ささいなことで同棲中の恋人・秋恵を殴りつけ、肋骨にヒビが入る怪我を負わせてしまう。暴力事件で前科のある貫太は警察沙汰になることを怖れ、我に返ると秋恵をちやほやし始める。しかしそれも束の間で、二人は野球観戦に行った帰り道、夕食は焼き肉にするか、家までタクシーで帰るかで大喧嘩してしまう。
この小説を額面通りに読めば、単に主人公の愚行と恋人との痴話喧嘩が書かれているだけである。しかしそうではない。ここにあるのは小説世界を覆うほど肥大化した作家の自我意識である。それはある面から見れば全能である。『手応え』を感じるほど他者の言動を読解しコントロールできる。一方でこの自我意識は他者によって客体化(相対化)される。世界いっぱいに拡がった自我意識がその中に含まれる他者を支配し、かつ他者からの拒絶によって客体化されている自己存在を冷たく見つめているのである。
このような構造を持った小説を私小説と呼ぶ。そして私小説は恐らく日本でしか成立しなかった小説形式である。その意味で最も日本的な小説(〝純〟日本的小説)を私小説だとすることに全く異論はない。問題はそれが〝制度〟に見えてしまう瞬間があることである。
ぜいたくとは何か。私にとってそれは、美しい男、よく磨かれた寝そべりやすい床、太陽を水面が反射するまぶしいほどの川岸。宝物とは何か。私にとってそれは、いつも褒めるられる長いまつ毛、清廉な佇まいで飲み口の薄いアンティークの紅茶茶碗、すっと触った指がありもしないささくれを想像して鳥肌を立てるほどになめらかで黒ずんだ艶を帯びた木製の肘掛け椅子。
(綿矢りさ『仲良くしようか』)
『仲良くしようか』は綿矢りさ氏の40枚ほどの短篇である。『文學界』サイズの長さの作品である。綿矢氏は優れた作家だが、『文學界』で短篇となると、『仲良くしようか』のような作品になる。出だしのワンセンテンスを読んだだけで、この小説では事件が起こらず、とりたててプロットもないことがわかる。あるのは『私』という語り手(主人公)の自我意識だけである。この自我意識は他者に、世界に深く食い込むことがない。薄く世界を彷徨っていく。私の想像(夢想)になることもあれば、現実に出会った他者の淡い印象、あるいはまったくの空想に流れることもある。しかし最後まで『私』は揺らがない。私の意識が小さくなり、大きくなりして、世界の表層をなぞっていくのである。
非常に書きにくいことだが、綿矢氏に限らず、『文學界』はこのような私小説〝的〟な小説を書くことを多くの作家にも強いる。作家の資質に関わりなく、『文學界』の作家になるためには、この通過儀礼をクリアしなければならないかのようだ。西村氏のような私小説作家にとっては、30枚から40枚という原稿はいささか長すぎるかもしれない。また意識の流れに小説の意味を見出した作家にとっては、この枚数は短すぎる。これも言いにくいが、私小説の資質を持たない作家が私小説〝的〟小説を書くと、なんとか苦労して原稿用紙の升目を埋めましたという感じが漂ってしまう。
『文學界』に敵意を持っているとか、最初から批判のための批判をしているのだと思われるととても困ってしまうのだが、少し弁明めいたことを言えば、最も日本的な小説が私小説だとしても、小説の最も〝純〟な部分、つまり小説の〝核〟が私小説で代表されるとは思えない。さらに言えば、自由な自己表現を求める作家が、どうしてこうもたやすくメディアの要請する〝型〟にはまってしまうのか、理解に苦しむ。これでもまだ説明不足かな。
小説の形式は堅固であり、そこに揺さぶりをかければ比較的簡単に前衛的作品を書くことができる。そういった小説も『文學界』には数多く掲載されている。しかし内容と形式が乖離している。より現代世界に深く食い込むための新たな形式ではなく、従来の形式を外すための前衛的身振りが目立つ。要するに前衛が形式化している。一方でメディアは新基軸を求めながら、伝統的基盤をも常に確認しなければならない。それが作家に課せられた強制的な〝私小説〟的制度に見える。前衛小説にも後衛小説にも〝制度〟ばかりが目立ってしまうのだ。
もちろん『文學界』に掲載されるのは、私小説や私小説〝的〟作品だけではない。僕は毎号高橋源一郎氏や伊藤比呂美氏の連載を楽しく読んでいる。今後から始まった井上荒野氏の連載小説『ママがやった』も面白そうだ。テンポのいい小説で〝ツカミはOK〟である。
大篠夏彦
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