顔せに髑髏の跡や蕎麦を打つ 大原テルカズ
安井浩司「俳句と書」展の図録に掲載された年譜に、大原テルカズとの交流を記した項が二箇所出てくる。安井が二十三歳のときの「千葉市にて俳句同人誌『黒』の大原テルカズらと会う」(1959年)と、翌年の「『黒』十二号に、初めての長編評論「言葉と想像力における抽象俳句の死角について」を発表する。が、『黒』は本号を最後に解散となる」(1960年)である。当時の大原テルカズは、幻の処女句集『黒い星』を刊行したばかりで、その前年の1958年に高柳重信を中心に創刊された「俳句評論」にも同人参加していた。
『黒』といい『黒い星』といい、大原テルカズという俳人には黒という色がよく似合っている。なかには大原を指して暗黒詩人と呼ぶ輩もいるようだが、黒には存在そのものの「冥さ」はもとより、夜、闇、悪、罪、負といった陰性の観念を象徴する働きがある。なかでも大原が黒という言葉に託したかったのは、他ならぬ「死」の観念であった。この「死」の観念への執着は、なにも大原ひとりに限ったことではない。もとを辿れば、戦前から戦後にかけて俳句革新の気運を盛り上げた新興俳句運動にその源流を見出すことができよう。それは戦争によって「死」が市民の日常へ否応無しに入り込んできたことと無縁ではない。
黒という色に関して言えば、大原が師事した高柳重信にそのプライオリティーがある。『黒い星』の三年前に、重信は自らの第三句集を『黒彌撒』と名付け、その巻末の覚書を次のような一文で締め括っている。
その間に俳壇では、いわゆる三十代作家の顕著な進出があった。彼等は、火のように燃えて、作品を書いた。私は、彼等にいくらかの共感をおぼえながら、なお且つ、氷のごとく沈着でありたいと、いよいよ深く誓うところがあった。彼等が火のごとく人の心を焼くときに、私は氷のように人の心を焼きたいと思った。ここにも、彼等の「白彌撒」に対する、私の「黒彌撒」が対比的に存在した。
(高柳重信『黒彌撒』覚書より)
昭和三十一年の日付を持つこの覚書には、戦後の高度経済成長の渦中にあって、俳句革新を標榜する俳人のなかでも、向日性を特質として積極的に社会へとコミットしていく「白彌撒」一派(=社会性俳句)に対し、あえて自らを「黒彌撒」と名乗り、芸術という暗室のなかでひたすら俳句の美学と対峙し続けることで、純粋な文学たるべき俳句の可能性を追い求めていった自負が滲み出ている。大原ほど執着していたわけではないが、重信もまた「黒」=「死」という象徴関係に対しては、サンボリスムの影響を受ける過程で当然のごとく避けられない親和性を感じていたはずだ。日常生活でも宿痾(しゅくあ)に苦しんだ重信は、そのために戦場へ行くことは免れたが、病による死の恐怖はもとより、戦場へ行けなかった劣等感と罪悪感ゆえの苦しみは、死にも匹敵するものであったといえよう。
『声前一句』のなかで安井は、大原テルカズを語り始めるのに高柳重信にまつわるあるエピソードを引き合いに出しているが、それは大原における「黒」=「死」という偏執の俳句的側面が、紛れもなく重信から受け継いだ観念であるということを言いたいがためと思われる。それは戦後生まれの歌人「福島泰樹が誌すところを寸見した」とあり、重信の第二句集『伯爵領』の収録句「明日は/胸に咲く/血の華の/よひどれし/蕾かな」が、学園紛争当時の学生運動家達の間で、学生自らが付けた節回しで歌われていたというエピソードのことだ。福島自身が早稲田の学生の頃に学生運動と無縁ではなかったことを考えるに、そもそもこれを歌い出したのは福島本人ではないかと疑いたくなるが、いくら同じ大学の先輩の俳句とはいえ、「俳句が、まして前衛的な集団の中で、決して唱われる筈がないということと、唱われたということの落差にめまいを感じたのだが、この落差の辺にひそんでいるものは何であろう」と疑問を訴える安井のめまいは想像に難くない。
しかし安井はエピソードに続け「こう述べて、大原テルカズの掲載句とは何の関係もないことである」と素っ気ないが、安井のように俳句を原理的に突き詰めた俳人が、一人の前衛俳人の一句を、何の関係もない小話を持ち出してまで語ろうとするはずがない。ましてや俳句と政治といった土俵の違いはあるにしても、同じ前衛として旧態依然とした多数勢力に果敢に戦いを挑んでいる存在であればなおさらだろう。だから安井は、「大原が俳句風景の中に一回だけ存在した」という現実を、「或る定型詩が、アナキスト集団に一回だけ存在した」過去と対比させたうえで、「たましいの同宿性を感じ」るのである。
では、安井が言う「たましいの同宿性」とは何か。それは「死」に対する憧れである。前衛的アナキスト集団が唄った重信の俳句は、明日に死の予感を抱き、死の予感にこそ酔い痴れようとする若き蕾=学生運動家達の自暴自棄なロマンチシズムそのものである。彼等は集団としての行動原理の正当性にすがろうとするあまり、ときに死を自らに課すことで、つまり自身の命を賭けているという幻想を人質に、集団の正当性を証明しようとする。しかしその誰もが、「死」とは想像上の観念に過ぎないことを知っており、「死」を覚悟するほどリアルな現実などどこにもないと思っている。だからこそ彼等にとって重信の俳句とは、フィクショナルな「死」を現実という日常の中で体感するにうってつけの文学であった、というわけである。
それは重信の俳句作品そのものがフィクションだというわけではない。彼等の行動原理そのものがフィクションであるがゆえに、彼等が享受した日常といい現実といい、そのことごとくがフィクションに変容するということである。そこには「死」の肉体化としての真摯な思考が決定的に欠落している。それを指して安井は、「思うに高柳の唱われた一句も、当時の学生達が、何ら正式な手続きなど踏むことなく、酒場のテーブルで独特の節回しを獲得していったのではなかろうか」といぶかしむ。ここで安井が言うところの「正式な手続き」とは、学生にとっては熱狂に煽られた一過性の知識を、命を懸けるに値する思想へと成長させることである。と同時に俳句にとっては、叙情による慰めや癒しとしての日常的救済から、日常非日常を問わず世界を観念(=思想)の断片として記録する叙事性への転換を意味する。
安井は大原の掲載句を前に、「大原の心的屈折と陰影は、たしかに抒情的救済を一蹴しており、酩酊ごとの裏町の赤提灯の句ではないように思える」と述べ、先の学生アナキスト集団のような、ロマンチシズムに衝き動かされた「死」に対する自己救済的憧れとは一線を画す句であることに言及する。しかし続けて安井は、「私はそれを書斎や荒野の一隅からではなく、やはり赤提灯のそばで知ったのである」と告白するように付け加えている。告白するようにというのは、この一文の裏に「いっそ書斎や荒野で知ったことなら、ことはもっと単純に済ませられるのだが」とでも言うべき安井の底意が隠されていると思われるからだ。
「赤提灯」といい「酒場のテーブル」といい、誰もが「死」という非日常的な観念と顔を衝き合わせるのに、これほどうってつけの日常空間は他にないだろう。酒の勢いでも借りながら、それこそ借り物の勇気をかたに「死」を盗み見ることもできれば、こっちの都合に合わせて何事もなかったかのように手を振って「死」と別れることもできる。安井が考える「死」とは、当事者の対峙の仕方によっては絶対的にもなるし、また同時に極めて刹那的な観念でも有り得るのだ。しかし安井が俳句形式を真摯に問えば問うほど、「死」とは絶対なのもまた確かなはずだ。
安井は俳人としての大原を、また大原の俳句そのものを、どこまでも真摯な審美眼で突き詰めようとする。だから安井は、自身はもとより大原にとっても、「死」とは表面的な付き合いで通り過ぎる観念ではなく、永きにわたって執拗に追い詰め続けねばならない思想であって欲しいと願っていた。おのおのの俳句行為において、「死」とは「言葉」と同様に絶対的存在として在り得るべきと考えていたのである。
結論から言えば、安井の厳しい審美眼は、大原の一句と「死」とのあいだに、最後まで絶対的な関係を確信することができなかった。大原の一句にとって「死」がいかに切実な観念であったかということを、肯定として語り切ることができなかった。「死」と切り結ぶだけの覚悟を、安井は大原の俳句に見出し得なかったといってもいい。しかし、安井はだからといって、大原テルカズという俳人の存在意義に疑いを投げかけているわけではない。それは、「死」が俳句形式にとって困難な観念であることを、安井自身が身に沁みてよく理解しているからではないだろうか。むしろ安井は、大原を「死」の呪縛から解放してあげようとするかのようだ。
これはもう“心”の問題に還元する外はない。振り返るに、俳句の荒廃と革新のイメージが、その二重性の中で奇妙なリアリティを獲ていた当時、大原あたりの俳句には、未だ“心”というもの、もしくは“心”という言葉が生きていた。それを“心情”と呼ぶようになったのは、何かが挫折したその後のことである。要するに、心で人間を語った、まさにその“心”であって、それが次第に薄れてゆく空しさに、しきりに耐えている様をこの句から感じ取ることは可能ではなかろうか。
(『声前一句』より)
安井は俳句形式において「死」が、もともと実体のない観念としてのみ存在していたことをほのめかす。それは「死」が、「荒廃と革新」という、生まれ変わった世界を背景とした「死のごとき風景」として語るすべがないことを意味する。つまり「死」は何かと引き換えに、あるいは自身を象徴的にしか語り得ないのだ。それは心の風景をいうところの「心情」が、「心」そのものを語り得ないのと同じことである。
かつて「心」は、そのものを語り得る言葉として息づいていた。「死」もまた同様に、「死」そのものを語り得る言葉として、「死」そのものを書き記すべく存在した時代があった。しかし、何かが挫折した今となっては、もうそうしたリアルな「死」はどこにもない。安井が言うところの挫折した何かとは何か。それは、たとえば重信の俳句を声高らかに唱ったアナキスト集団にとっての、あらかじめ失われたリアリティとしての「死」と考えてもいいだろう。もちろんそうした手合にとっての都合のいい「死」と、大原の一句の中で密かに息衝く「死」とは別のものには違いない。前者が叙情による救済を前提とした「死」だとすれば、大原の一句に読み込まれた「死」は、安井の言うとおり「たしかに抒情的救済を一蹴して」いる。が、この「一蹴している」というように、どうしても否定的にしか語り得ないところに、安井は大原の「死」に対するもどかしさを覚えているのだ。だから安井が提出した「心」の問題とて、行き着く先は同じだろう。「それが次第に薄れていく空しさに、しきりに耐えている様」とは、大原の一句が、廻り廻ってやっぱり否定として語ることから抜け出せてはいない。言葉による「死」の絶対化から遠かったがゆえに、大原テルカズは安井の俳句風景の中に、一回だけ「しか」存在できなかったのである。
田沼泰彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■