紅(くれない)や水の記憶に山椒の木 河原枇杷男
「河原枇杷男は想い出を安売りする俳人ではない。」という断定の一行で、安井は河原枇杷男についての掌論を書き起こす。この断言の背後には、「安井浩司もまた想い出を安売りする俳人ではない。」という自身への言及が隠されている、といったら深読みに過ぎるだろうか。しかし、続けて「いや、想い出なんか三文の値打ちもないことを知っている」と書きつけた安井の腹の中には、そんなことは河原枇杷男以上にこの俺がいちばんよく分っている、という自負が込められているように思えてならないのだ。
すなわち冒頭の一行から、安井浩司と河原枇杷男による、ポスト重信、ポスト耕衣、ポストモダニズム俳句という、俳句史への生き残りを賭けた、といっては大袈裟に聞こえるかもしれないが、それくらいは当然考えていたであろうこの二人による、最終走者争いを読み取ることができよう。大変月並みな言い方だが、二人は当時、ライバル同士であったことをお互いに充分過ぎるほど自覚していたはずだ。もちろん「俳句評論」にしろ「琴座」にしろ、あるいは「ホトトギス」にしろ、同人内結社内での俳人同士の競争は、掃いて棄てるほどあったであろうことは想像がつく。
安井を中心に見渡しても、大岡頌司を筆頭に、折笠美秋や志摩聰、寺田澄史といった「俳句評論」の同世代同人、そして先輩格の加藤郁乎はいうまでもなく、それこそ師である高柳重信までもが安井のライバルになった可能性はある。ならばそれに加えるに「琴座」主宰の永田耕衣、そして金子兜太と「海程」一派。さらに、『聲前一句』執筆当時にはすでに俳人としての寿命を終えていた寺山修司を含めても、安井がライバルと見做していたであろう俳人は十指に余りある。それこそこの『聲前一句』にしてからが、全編を通して安井浩司によるライバル物語の様相を呈しており、掌論で語った三十五人すべてがライバルといっても過言ではない。
安井浩司は、他人と競い合うことで自らを発奮させていく俳人である。前回引用した『聲前一句』後記の、「ただ、私自身、折々の失語状態からささやかな発語を誘ってくれた一家一句」という部分は、厚いオブラートに包まれてはいるが、競争意識を創造行為へと変えていく安井ならではの発言であろう。もちろんそうしたモチベーションの持ち方は安井に限ったことではなく、物を作る者にとっては当然あり得ることに違いない。しかし、安井浩司と河原枇杷男、それに大岡頌司を加えた三人の俳句トライアングルは、俳句ジャーナリズムから前衛俳句として一括りにされた挙句に、俳壇の鬼っ子として疎まれ常に孤立感にさらされながらも、作品で俳句原理を掘り下げていく過程において、それぞれの競争原理が功を奏した例として俳句史に特異な一行を加えてしかるべきと考える。
三人の組み合わせということでは、浩司と頌司は「牧羊神」や「青年俳句」、そして「黒鳥」といった若年層の俳句同人誌の同人同士として、俳句初学である高校時代からの付き合いだった。幼馴染みからかどうか解らないが、相互の作品評などを読んでも露骨に火花が飛び散るようなことはない。そもそも「俳句評論」入会へと安井の袖を引っ張っていったのが大岡であるという裏事情もあろうが、当時の大岡が多行形式俳句に専念していたことも要因としては考えられよう。安井にすれば多行形式俳句を取り入れている俳人は、いい悪いは別にして自分とは方法を異にする存在として、正面切って競争しようという気にならなかったのかもしれない。
枇杷男と頌司の二人は、1977(昭和52)年に立風書房が刊行した六巻からなるアンソロジー『現代俳句全集』の第五巻にそろって入集している。この巻の面子を並べると、阿部完一、飴山実、飯島晴子、宇佐美魚目、大井雅人、大岡頌司、川崎展宏、河原枇杷男、後藤比奈夫、鷹羽狩行という、伝統と前衛にかかわらず来るべき俳句界を背負って立つ有能な若手ばかりだ。もちろん安井とて例外ではなかった。当時は、第四句集『阿父学』で前期安井浩司の頂点といってもいい境地を示したばかりか、次なる第五句集『密母集』の刊行を自信を持って準備していた頃で、アンソロジーの中に安井浩司の名前が加わっていても決しておかしくはなかったはずだ。
しかも『現代俳句全集』では、枇杷男論として詩人の吉岡実が、「枇杷男の美学」を書き下ろしている。「第二回俳句評論賞」で安井を高く評価し、「重信と弟子」と題したエセーの中で重信の弟子の一人として安井を取り上げた吉岡が、一方で河原枇杷男に対しては丸々一本独立した枇杷男論を書いたということも、安井のライバル心を燃え立たせるに充分だったと思われる。この『現代俳句全集』でふたりに遅れをとった安井の心中は、決して穏やかとは言い難かったことだろう。
だが安井は、こうしたライバルたちに対する感情を自らの創作の起爆剤にこそすれ、彼らの作品に対しては極めて冷静な批評眼をもって接していたのも確かだ。そこには前衛として文学の最前線を走っているという相互に認め合った自負があるのは確かで、伝統を墨守する俳壇主流派を敵にまわして共同戦線を張る「同士」、といった意識が窺える。そして共同戦線の仮想敵はなにも伝統俳人に限ったわけではない。たとえ前衛であっても俳句に対する思考に異和を覚えれば、そこに容赦ない疑いを向けるのが安井ならではの批評眼であり審美眼なのだ。
昨今、観念に遠慮したり、季語を怖がったり、どこか夜中のうす汚れた電燈の下で相互慰撫をし合っている俳人を尻目に、観念と季語との抱合を白昼堂々とやってのけたのは、河原以外にちと見当たらない。
(『聲前一句』より)
冒頭で「想い出を安売りする俳人」という言い方で、常に「想い出」へと変化してしまう日常にもたれかかった伝統俳句をあてこすった安井であるが、引用した一文で痛烈な皮肉を浴びせているのは、他でもない前衛俳句に対してである。「観念に遠慮したり」とは、前衛俳句が本来守備範囲とする非日常的な観念が、俳句形式のなかに安易に取り込まれるとすぐに月並みを露呈してしまうことを指す。また「季語を怖がったり」とは、有季定形に対するアンチテーゼとして前衛俳人が取り入れた無季という方法が、いつの間にか無季という決まりごととして形骸化することを指し、その挙句に季語に対する無自覚な嫌悪が生れ、やがて季語そのものへの強迫観念=恐怖へと変わることを意味する。
また「相互慰撫」とは、俳壇から鬼っ子として疎まれる存在の前衛俳句ゆえに、前衛俳人が集まれば派閥としてのセクト主義的な体質を強めることとなり、セクト内でしか通用しない独善的な論理がまかり通る堕落した状況へと至ることを示している。このように前衛俳句というスタンスは、陥穽へと誘う罠があちこちに張り巡らせてある極めて危うい立場といえる。だが、そうした危うさに対し俳人は充分意識的であるべきで、とくに前衛俳人こそはこうした危うさを超越しなければならない。つまり「夜中のうす汚れた電燈の下」といった暗闇ではなく、「白昼堂々」俳句に向き合わねばならないと安井は言う。そうした超越者の一人として、安井は河原枇杷男を評価しているといえる。
枇杷男には『西風の方法』という散文集がある。昭和五十八年九月二十七日刊行(序曲社)ということは『聲前一句』刊行の六年後にあたるが、前出の『現代俳句全集』(昭和五十二年刊)に俳句作品と一緒に掲載された「自作ノート」という自句自解が元になっていることから、『聲前一句』とほぼ同時期か、それ以降に書かれた散文をまとめたものと思われる。『西風の方法』もまた『聲前一句』と同様に、頁の見開きに一句と掌論(小論)を配した構成になっているが、こちらの句は枇杷男自身の句集から自選した三十六句で、それぞれの句にまつわる思考を四百字以内で綴った短いエセーと合わせ鏡の構造になっている。限定二百五十部刊行ということで今では稀覯書の類となっており、少し長いがそのうちの一篇を引用する。また合わせて、本書で取り上げられた彼の代表句から数句引用する。
囀やさへづりながら近づく死
詩の本質などと言ってみても、所詮、それはこの世界の根源からくる或るかなしみに尽きるものかもしれない。
ベラ・バルトークの、たとへばその無調的半音階と不協和な書法による弦楽四重奏曲においてさへ、対人的な感傷とは異質なかなしみが、われわれの心を捉らえる。それは不思議な孤独感、あるいは形而上学的な感傷とでも言へるものかもしれない。二十世紀のすでに代表的な古典とされる「管弦楽のための協奏曲」にしても、華麗なパッセージの奥から生きて在るものの非情の悲しみともいへる彼の肉声が聴こえてくるが、又、そこに無類の詩を読むことができるであろう。
詩とは、反感傷的なかなしみを土壌として生えてくる薮の中の蔓草のやうなものかもしれない。花など淫らにつけたりはしない。
(『西風の方法』より)
*
てふてふや水に浮きたる語彙一つ
十三夜畳をめくれば奈落かな
誰かまた銀河に溺るる一悲鳴
筍や天に跼める暗きもの
割つてみよや頭蓋のなかは葉鶏頭
凍蝶も死ぬとき鏡おもひけむ
天の川われを水より呼びださむ
*下線はすべて筆者による
『西風の方法』のエセーは引用した自選句の解説というわけでなく、その一句を基点として思うがままに綴った俳句的思考の軌跡とでもいうべきものだ。だから引用した一篇にしても、ことさら掲出された一句と重ね合わせて読む必要はない。モチーフとして主題を展開するバルトークの「管弦楽のための協奏曲」にしたところで、「囀」という音楽的な言葉によって導き出されたぐらいに考えておいたほうがいい。エセーは「詩の本質」という出だしで始まってはいるが、それはある不可知の観念へたどり着くための思考ではなく、知覚し得る観念(この場合はバルトークの音楽)と自選句との取り合わせとして提示される。それはエセーの文字数という制約から導き出された書法であろうが、それ自体が極めて俳句形式に近い。いや、むしろ俳句形式そのものといってもいいくらいだ。
つまり『西風の方法』で表現されているのは、俳句形式(=掲出一句)と観念(=エセー)との衝突というべき事象であり、まさに「観念と季語との抱合」である。さらにこうして語られる枇杷男の美学とは、「世界の根源からくる或るかなしみに尽きる」というように、常に叙情性として還元され得る世界を指す。前回(Ⅰ)、安井が『聲前一句』を「詩表現」であるといっていることから、安井の審美眼を通した俳句世界の「叙事詩」として読むことができると書いたが、この『西風の方法』をそれに倣って喩えれば、さしずめ「叙情詩」としての詩表現であるといえよう。
枇杷男の俳句自体についても、『西風の方法』と面白いほどの相似形を示す。引用句の下線は俳句ジャンルの外にいる読者のために季語を示したものであるが、どの句においても季語は、それ本来の働きである季感の表現とはまったく無関係に機能している。それは恣意的な観念との衝突による、言語の力感の創出においてのみ機能しているといえる。つまり、俳句形式(=季語)のなかにあえて俳句にあらざるもの(=観念)を持ち込むことで、物質と観念という異質なもの同士が衝突し、その衝突によって破壊され混乱した世界のなかに、力としての言葉を再構築する。こうした言葉の機能は、俳句形式の堅牢性への信頼があって初めて成立するものであり、この信頼とは、俳句根源の思考によってもたらされる。そして「俳句形式への信頼」=「俳句根源の思考」とは、枇杷男俳句に特有な構造ではなく、この点において安井の俳句観とも十分通底するように思えるのだ。
では安井は、共同戦線の戦利品であるこの俳句形式への信頼を、枇杷男とともにいかように分かち合おうとするのか。話をふたたび『聲前一句』に戻して、安井が枇杷男の一句をいかに読んだかを追ってみたい。先ず安井は挨拶代わりというわけだはないだろうが「紅(くれない)とは、やはり地獄好みの枇杷男の色だなと思った。地獄即伽藍とでもいうべき裏合わせの光景を、彼のために紅心象と呼んでおきたい」(『聲前一句』より)と、その特異な作家性の一端を簡潔に指し示して見せる。
だが、「紅心象」とはどことなく歌謡曲の題名に似つかわしく、しかも「呼んでおきたい」といういくぶん投げやりな即興性が引っかかる。引っかかった疑念は、次の一文である仮定へと展開する。
さて、私の詩的独断によれば、紅とは、虚の色相として、ついにこの世で実際のいろの姿をみせてはならないような気がする。何かに、たとえば水の記憶に包まれて、永遠(とわ)に開かれることを禁じた色であり、禁じられるゆえに山椒も紅にもえるほかはないのだ。
(『聲前一句』より)
こうした仮定の直後に、安井は「〈水の記憶〉とは、誤解なきように言うが、水自身の記憶のことであり」と、殊更さりげなくほのめかす風を装いながらも、仮定の核心を指し示すような呟きを書き付けている。安井の散文の特質でもある自己韜晦的な表現だが、引用文と合わせてその行間を辿れば、安井ならではの厳しい審美眼が姿を現す。
つまり、紅という枇杷男好みの観念は、虚としての正体を晒すばかりで、現実の世界における実体として焦点を結ぶことなく、水のような形のない作家主体の記憶のなかに、永遠に封印されるものと成り果ててしまう。なぜなら好き嫌いのふるいにかけられた観念は、ついに作家固有の記憶を超えることができないからだ。たしかに枇杷男の美学は特異な観念に裏打ちされてはいるが、普遍的な思想へと昇華することは期待できない。それが虚として禁じられる観念の宿命であり、禁じられるがゆえの抗いの後に、いつしか枯渇する運命を避けられない。また枯渇した観念は、水の記憶という作家の「想い出」に残るだけだ。
いささか強引過ぎる仮定かもしれないが、枇杷男俳句の後日談を知っていればこそ、安井の評言にこの程度のことを読み取るのは容易い。繰り返すが安井の容赦ない審美眼は、共同戦線を張っていたはずの「同士」に対しても厳しくて当然だ。歴史が叙情を伴侶とすることはない。叙情とは常に生まれ出たその瞬間を生きるだけで精一杯なのだ。甘っちょろい叙情はともかく、観念で武装した強面の叙情とて、常に歴史という時間に淘汰されるのがその宿命なのだ。安井は、叙情を蹴飛ばす勇気が問われている「同士」、つまり河原枇杷男という俳人に対する言及を次のように閉じている。
ところで、この句は作者自身の手によって家集にも蔵されず死句と化したが、枇杷男独奏の「水の思想」を呼び出す序詞として、死句の誇りのようなものを私は見捨てたくはないのだ。
(『聲前一句』より)
確かにこの時点で安井は、河原枇杷男という俳句の寿命を見通していた。おそらく確信していたといっても過言ではあるまい。しかし、一度ならずライバルとして認め合った「同士」として、枇杷男自身が自らの延命方法に気付くことに期待していた。「水の記憶」として燃え尽きる前に、「水の思想」をその手で掴み取ることを、安井はひたすら願って止まなかったに違いない。
今のままでは枇杷男俳句はいずれ死句と化すだろうが、死句と化してもなお自分(=安井)はその俳句に賭けた(枇杷男の)誇りは忘れないよ。なぜなら俺もお前も、「想い出を安売りする俳人ではない」のだから。孤立を深めつつあった安井にとって、同士でも戦友でもなく、真に好敵手と呼びうる俳人がひとりでも多く実在することこそ、願ってもない僥倖だったに違いない。これはそうした僥倖への決別宣言である。
田沼泰彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■