のざらしを鮒来てかこむ星座跡 志摩聰
冒頭で安井は、自身にとっての最大の屈辱として、西東三鬼の処女句集『旗』と志摩聰の第五句集『黄體説(こうたいせつ)』を、高柳重信から借りてノートに写し取ったエピソードから書き始めている。他人の句集を書き写すということが屈辱かどうかはさておき、単に読みたいがためだけなら借りて読めば済むことでわざわざ書き写すことはないはずだ。書き写すからには読むだけでは済まない事情があったということになろう。もちろん『旗』と『黄體説』が当時簡単に手に入る本ではなかったことが前提だが、安井はこの二冊の句集に対しわざわざ書き写すだけの価値を感じていたということだ。
『旗』は、俳句革新を標榜した新興俳句運動の旗手、西東三鬼の処女句集で、太平洋戦争が始まった昭和十五年に刊行されている。三鬼の代表句「水枕ガバリと寒い海がある」は昭和十一年の作としてこの句集に収められているが、刊行直前の二月に、三鬼は京都府警察部によって検挙されている。俳句史から消すことのできない国家権力による俳句弾圧、いわゆる「京大俳句事件」である。こうした激動の時代の先陣を切るように刊行された『旗』が、当時の俳人の手に渡ったのは極めて少部数であったことは想像に難くない。
『旗』の刊行は安井浩司が生れて五年たらず後のことであり、安井が新興俳句の影響下にあった高柳重信の門を叩くのはさらに二十年以上先のことである。戦争という歴史の荒波は、作品という形のないものであれば流木のように微小な存在として記憶という波間を漂わせておくこともできようが、句集という物質においては小石のように海の底に沈めてしまうのが落ちだ。そうした小石が安井の手に入らなかったのも致し方あるまい。
『黄體説』はというとやや話が異なる。志摩聰は重信が発起した同人誌「俳句評論」の創刊同人であるが、それ以前は重信の師である富澤赤黄男主宰の「薔薇」に、重信の推輓をもって同人参加していた。「薔薇」は前衛的かつ高踏的な俳人集団で、個人の句集刊行に際しても百部や二百部といった少部数の限定刊行によるものが多い。そうした趣向を受け継いだ志摩は、俳句評論社などから際立って少ない部数の句集を、限られた少数の読者に向けて刊行している。『黄體説』もその一つで、なんと限定三十部の刊行という。刊行された昭和三十八年に「俳句評論」同人が何人いたかは詳しくないが、おそらく同人すべてに行き渡ったとは到底思えない。まして安井が「俳句評論」同人になったのはこの翌年(昭和三十九年)のことで、『黄體説』を入手できなかったのもやむをえないだろう。さらにこの幻の句集は、当時の安井が密かにもくろんでいた先鋭的な俳句作品プランを、まさに先取りするがごとき様式として提示していたのだから、安井にとっては読んだだけでは到底済まされるものではなく、悔しさを紛らわすためにも書き取らざるを得なかったはずだ。
事もあろうに、私も漢文字風の呪文の様式一巻をかくべく緻密に案を練っていた矢先のことであった。私の野心は見事に崩れた。
(『聲前一句』より)
安井が構想していた「漢文字風の呪文の様式一巻」がいかなる俳句作品であったかはわからないが、「緻密に案を練っていた矢先」に、志摩の『黄體説』の噂を俳句仲間の口から耳にしたのであろう。似たことを考えていた安井だから、耳にしただけで『黄體説』の特異な様式を充分に想像することができたのだろう。「野心は見事に崩れた」という一言から、安井の落胆した様子が目に浮かぶようだ。俳句的野心を打ち砕いた句集『黄體説』から、当時の安井の気持ちを想像するべく収録された全十四句を引用する。
【黄體説(コウタイセツ)Ⅰ(黄陽篇コウヨウヘン)】
*全句に片仮名のルビが振られている。全て正字体漢字表記。
黄卵聖七曜日稚児 黄暈雛菊 黄飛行船
(オウランセマナ・サンタチゴ コウウンヒナギク キヒコウセン)
黄莫臥爾薔薇魔 黄娼伊太利管麵 黄酪暉
(キモールバラマ コウシヨウマカロニ コウラクキ)
黄温燕麦糜粥 黄帆貿易風 黄蝶
(コウオンオートミール コウハンボウエキフウ キチヨウ)
黄鼻音楽性人参 黄有鰭木馬 黄産科医
(コウビオンガクセイニンジン キユウキモクバ キサンカイ)
黄淫伽藍鳥 黄禿司祭 黄鬱金香
(コウインペリカン コウトクシサイ キウコンコウ)
黄拇印絲雀 黄爵男妾 黄拳銃
(キボインカナリア コウシヤクジゴロ コウコルト)
黄海軟風 黄帆走魚 黄葡萄酒
(キカイナンプウ コウハンソウギヨ キブドウシユ)
【黄體説(コウタイセツ)Ⅱ(黄陰篇コウインヘン)】
黄弥勒 黄旗干鰈 黄紙幣
(コウミロク コウキヒカレイ コウシヘイ)
黄蠍 黄噴水蜃気楼 黄子宮癌
(コウカツ キフンスイシンキロウ キシキユガン)
黄鵞毛戎克 黄衣弥勒華 黄味醂
(キガモウジヤンク コウイミロクゲ コウミリン)
黄酵母賓頭盧 黄睡烘餻 黄乳月
(キコウボビンズル コウスイカルメル キニユウゲツ)
黄革喇嘛巫女 黄膚干葡萄 黄盲駝
(コウカクラマミコ コウフヒブドウ コウモウダ)
黄野蒜喇嘛児 黄佝僂石馬 黄茶壷
(キノビルラマジ コウクルセキバ コウチヤツボ)
黄馬 黄砂岩的黄喇嘛尼 黄溢血
(コウバ コウサガンテキコウラマニ キイツケツ)
形式的には上五・中七・下五の区切りに一字空白を入れた赤黄男流の分かち書きであるが、俳句定型には収まり切らない、漢字だけを並べた漢詩文のような作品になっている。そして狂気を暗示する色の「黄」と、「爾・麵・糜・鬱・蠍・喇嘛」といった多画数漢字によって、俳句的風景とは異質の非現実的な幻想空間が立ち上がっている。漢字の並び自体は特に言葉としての意味があるわけではなく、あえてイメージの離れた漢字同士を隣り合わせることで句の意味を空無化すると同時に、無関係な言葉同士を衝突させることで新たなイメージを作り出している。つまり、言葉の意味という秩序の呪縛から作品を解放することで、混沌が生み出す狂気によって作品を再構築しようとする意図がみえる。だが、志摩聰がより巧みなのは、このような抽象的観念的な世界観ではなく、より物質的な言語観を作品によって表現していることにある。
志摩は、一句の上五・中七・下五のそれぞれの頭に「黄」の漢字一文字を配することによって、定型を無視した独善的とも思える破調破格な作品に、残滓といってもいいほどの微かな俳句形式を付与している。しかし、たとえ微かであってもなお堅固な俳句形式によって、混沌たる無秩序な観念世界を、より強固に存在する視覚空間へと昇華せしめている。こうした言葉の物質化の延長上に、言葉を視覚対象として捉え直す試みは、重信の多行形式俳句が形式的必然性として、言葉の視覚的配置効果であるタイポグラフィーという方法から始まったことと一致する。
俳句形式が表現し得る世界は決して無限大ではない。俳句形式には表現に見合った世界の大きさがある。それを越え出ようとすれば必ず、「なぜ俳句なのか」という問いによって行く手を阻まれてしまう。言葉の視覚効果は、言葉の意味と切り離して考えることがその前提にあり、それによって俳句形式に見合ったサイズという保険をかけたうえで、極めて自由に思い切った実験を試みることができる。つまり言葉の視覚効果を試す媒体として、俳句形式は極めてうってつけともいえるのだ。もともと俳句形式における言葉の視覚効果という方法は、重信や志摩から始まったわけではない。その源流を辿ればやはり戦前の新興俳句へと至り着く。そうした実験的な俳句の試みとして、三鬼の『旗』に収録された「戦争」という題の作品群から数句引用する。
機関銃熱キ蛇腹ヲ震ハスル
機関銃地二雷管ヲ食ヒ散ラス
機関銃翔ケリ短キ兵ヲ射ツ
機関銃一分間六百晴レ極ミ
機関銃眉間二赤キ花ガ咲ク
上五を「機関銃」の三文字で統一し、本来ひらがなの助詞や送り仮名をカタカナで表記している。このような様式の句が十句とか二十句並ぶことで、おびただしい数の機関銃の銃口がイメージとして眼前に現われる。と同時に、没感情的なカタカナ表記が叙情を空洞化する効果を生み、一句に非情ともいえる非日常空間を現出させる。中七以降に使われる言葉も、「蛇腹・雷管・兵・一分間・六百・眉間」などといった無機質なものが並んでいる。こうした一連の俳句群もまた、意味よりも視覚効果を優先した方法意識によって作られていると見ることができる。
俳句革新としての新興俳句が前衛俳句へと進化する過程で、このように意味を棄却した言葉を物質的な感覚対象と見做し、知覚以前に視覚や聴覚を刺激する言葉として句作することは、創造というよりも遊びに近いということで「言語遊戯」と呼ばれた。「言語遊戯」によって、俳句作品は言葉の意味による観念を諦め、ひたすら呪文のようなものへと近付いていく。もちろん観念といい呪文といい、俳句が表現するべき事象に貴賎があるわけではない。問題は、呪文が無意味な「言葉遊び」として見棄てられずに、観念のように意味ある価値として延命を遂げられるかどうかにかかっている。意味の空無化を経た「呪文」が、言葉としての価値を取り戻すとしたら、それは「言葉の力」という価値以外にはあり得ない。「遊び」には確かに享受する者を楽しませる力はあるが、その力は時間の経過とともにやがて失われる。「言葉の力」とはあくまでも永続的な言葉の価値をいう。
『聲前一句』に話を戻せば、安井は「今更に言語遊戯の話をしてもおかしかろう」と、志摩の一句を語るにあたって前置きをしているが、かつて構想した「漢文字風の呪文の様式一巻」はさておき、今になって省みれば「呪文」であれ「言語遊戯」であれ、延命のための「言葉の力」を見出す可能性には、疑問を持たざるを得ないとでも言わんばかりだ。何気なく書き留められたような一行であるが、「今更に」という一語が語るのは、呪文様式の可能性に対する諦めにも似た気持ちであろう。つまり安井は、「呪文であれ言語遊戯であれ、その限界は見えてしまった」と言っている。言うまでもないがこの安井の諦観は、志摩聰という「呪文」の先駆者に出くわした不幸が原因ではなく、悔しい気持ちで『黄體説』を書き写す過程で、俳句形式における「言語遊戯」の限界に思い至ったからなのだ。
安井は、「敢えて言えば」と前置きしたうえで、「加藤郁乎のような言語遊戯の主もおるが、志摩聰はとわに言語遊戯の下僕といったところであろう」と、俳句を革新するための方法として言語遊戯を戦略的に試行している加藤を「主」に喩える一方で、囚われの身として疑うことなく言語遊戯を欲望する志摩を「下僕」と呼んでいる。しかし、このときすでに安井の腹の中には、言語遊戯に俳句形式の新たな可能性はないとの思いがあり、そういう意味での「敢えて言えば」なのだが、それでも志摩を盲目的とけなしたり時代錯誤とさげすんだりは決してしていない。なぜなら、志摩が志摩なりに言語遊戯をとことん追い詰めた挙句、なおその可能性を捨て切れていないことに、安井は十分に気付いているからだ。
志摩は、俳句形式が世界のあらゆる様態を表現できるわけではないのと同様に、自身も言語遊戯以外のあらゆる方法を取り込める俳人だとは思っていない。そればかりか、俳句で表現できるような観念の持ち合わせがないことを自覚していたのではないかと思われる。しかし安井は、志摩が下僕として言語遊戯に殉じるべく俳句に取り組む姿勢が、伝統派俳人が有季定型を疑うことなく利用するような、いわゆる「墨守」とは明らかに違うことも見抜いていた。志摩の言語遊戯が結果的には遊びの範疇を越え出ることはないかもしれないが、その行き止まりの狭い袋小路に身を置きながらも、志摩は更なる「遊び」の可能性を次々に模索してきたのだ。安井が選んだ『聲前一句』の掲句も、まさにそのような新たな「遊び」の可能性として、その審美眼に引っかかった一句だといえる。
〈鮒〉とは上手いことを言ったものだが、これを〈俳人〉と置き換えてみたら、この句の妙理が判明するのではなかろうか。具体的にいえば、志摩とか安井とかのざらしふうの奇妙な四、五人が星座跡を囲んでいるのである。この星座跡とは、もしかしたら俳句跡のことではないか。のざらしを俳人かこむ俳句跡こそ、一幅の風景として観るに耐えうるというものだ。
(『聲前一句』より)
「のざらしを鮒来てかこむ星座跡」は、志摩聰の句の中でも特に俳句らしい定形を保った句である。収録句集の『P&P』(昭和48年・不動工房刊・限定99部)は、詩人にして画家の亀山巌との共著で、前半が亀山のイラスト画集、後半が志摩の一行表記俳句五十句で構成されている。志摩らしい美学と趣味的な装いに彩られた句集だが、『黄體説』十四句ほど過激ではないにしても、一筋縄では読み解けない破調にしてあくの強い句が並んでいる。
そのなかで安井が一句を選んだ理由は、それが「正面から見えるものを据えている(『聲前一句』本文より)」からである。川か沼かは不明だが水底に沈んだ頭蓋骨を、数匹の鮒が取り囲んでいる。頭蓋骨は古いいくさの成れの果てなのか数個が並んで転がっているのかもしれない。長い間水に洗われて真白くなった頭蓋骨が、水を透かしてみるとまるで星座をかたどったような形を成している。あるいは一個の頭蓋骨を取り囲んだ鮒の向きが星座の形に見えたのかもしれない。いずれにしろフィクショナルな光景ではあるが、「見える(はずの)もの」を「正面」から「見据えている」写生的といってもいい句だ。
ほとんど全てといってもいいと思うが、志摩の句はモチーフを側面や背後から斜めに窺うようにして捉え、垣間見た一瞬の残像から言葉を派生させている。こうすることで現実の事物や風景はデフォルメされて存在感が希薄になり、代わって言葉そのものの音や図像へと知覚が向けられるようになる。つまり言語遊戯は、喩えは悪いがいわゆる地口や語呂合わせのように言葉そのものの音や図像を、言葉の意味よりも常に先行して知覚させようとするもので、言葉に付着したイメージや観念はそれらに後れて付いて来ることが望ましい。
「星座跡」とはおそらく志摩の造語と思われるが、本来天空を仰いで見るべきはずの星座が、ここでは水底を見下ろすように覗き込むことになる。しかも星座といってもそれは痕跡でしかない。何ゆえ鮒なのかといった疑問は残るが、鮭(秋)や鱒(春)といった季語を持ってこなかったのは、俳句的叙情よりも言語遊戯を優先させるために、あえて無季に固執する必要があったからだろう。繰り返しになるが、観念を棄却した時点から始まる言語遊戯にとって、季語のようなアプリオリに観念化した言葉は無用の長物に過ぎない。
ならば「のざらし」や「鮒」に象徴を探っても始まらない。むしろ言葉が写生したあるがままの風景として、一瞥をくれたうえで通り過ぎるべきだ。それでも読後には、「のざらし」・「鮒」・「星座跡」という言葉による、奇怪でグロテスクな取り合わせの妙が残るはずだ。また安井のように、「のざらしを俳人かこむ俳句跡」と読み替えることも言語遊戯ならではの楽しみ方だ。「星座跡」も「俳句跡」も、それぞれ「星座」と「俳句」の痕跡でしかない。それは振り仰いで見上げるほどのものではなく、反対に落ちている小銭を拾うかのように、足元を見下ろすほどのものでしかないのだ。とはいえ、俳句形式そのものの自己言及により、前衛の立ち位置を呪う呪文として、言葉の力という存在感にあふれている。
言語遊戯には生れ落ちた一瞬に現れる向日性のユーモアと入れ違いに、時が経つとともに陰湿な皮肉にも似たマイナス思考が顔を覗かせる。しかし、言葉の「力」いかんによっては皮肉も「呪」へと、肯定的なる姿として生まれ変わることができる。志摩はそうした言葉の力を執拗に試し続けた下僕として、安井の審美眼に刺激を与えた俳人なのだ。
田沼泰彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■