於・千葉市美術館 会期=2012/05/29~07/08
入館料=1000円(一般) カタログ=2500円
評価=総評・85点 展示方法・80点 カタログ・85点
渓斎英泉(けいさいえいせん)は、葛飾北斎を除けば僕が一番好きな江戸の浮世絵師である。とは言っても浮世絵といえば歌麿、北斎、広重、写楽が代表的作家であり、英泉の名前すら聞いたことのない方が多いと思う。最近では英泉とほぼ同時期に活躍した歌川国芳の評価が少しずつ上がっているが、英泉を積極的に評価しようという動きは起こっていない。しかし英泉は面白い。最も浮世絵師らしい浮世絵師の一人である。
カタログの『ごあいさつ』で館長の河合正朝氏が書いておられるが、千葉市美術館設立のきっかけになったのは、浮世絵研究家・今中宏氏蒐集の英泉作品だった。今回の英泉展は今中氏蒐集の館蔵作品を中心にしているが、『第1章 初期美人画とその周辺』『第2章 英泉美人の流行』『第3章 風景画の時代』『第4章 江戸名所・名物と美人』『第5章 肉筆画の世界』『第6章 摺物の世界』『第7章 契情道中双娽』『第8章 藍摺の世界』『第9章 活躍の拡がり』『第10章 版本』と時代・ジャンル別に英泉作品を紹介している。展覧会を見逃された方でも、カタログをご覧になれば英泉がどんな作家だったのか理解できるだろう。
今『作家』という言葉を使ったが、これは便宜的なものである。作家は基本的に、ヨーロッパ文化が流入した明治維新以降の概念である。創作に際して個の独自性を重視する姿勢が唯一無二の作家という概念を作り上げるのである。幕末で強い作家性を感じ取れるのは北斎や曽我蕭白といった画家だけである。ほとんどの画家は絵師だった。修練を積んだ職人だったのである。英泉もまた基本的には職人だった。もちろん作家性が皆無だったわけではない。ただ英泉の作家性は北斎や蕭白とは質の異なるものだった。
基本的な概念をおさらいしておけば、浮世絵は浮世=現世を描いた娯楽商品である。ボストン美術館のカタログが『浮世』を『Floating World』と訳していたが、ふわふわと移ろいゆく現世を描くのである。浮世の華はなんといっても女性である。それに役者と相撲取りである。現代で言えばグラビアアイドルと芸能人、それにスポーツ選手ということになる。最幕末になるとこれに名所絵(風景画)が加わる。広重の『東海道五十三次』や北斎の『富嶽三十六景』などがその代表である。また浮世絵師にはこの他にも重要な仕事があった。挿絵と枕絵である。彼らは今でいう教科書から小説本まで、ありとあらゆる印刷物(板本)の挿絵を手がけた。枕絵は現代でいうポルノである。根強い需要があり、ほどんどの浮世絵師が大量の枕絵を描き残している。
英泉は美人、役者、相撲、名所、枕絵など、ありとあらゆる浮世絵を描いた。ほとんど手当たり次第に描きまくった。英泉が生涯に何枚の絵を描いたのかは把握できていない。そこには大量の浮世絵を必要とした江戸の爛熟と、英泉の生き様が重なりあっている。英泉の独自性というものは確かにある。しかしそれは基本的に浮世絵の伝統に含まれるものである。英泉は依頼された仕事をこなし続けることでその個性を発揮した画家である。
芸術の世界で歴史に名前を残す作家は、たいていの場合、なにごとかを新たに創出した人である。幕末の浮世絵師では北斎がそういう作家である。北斎も修練を積んだ伝統的浮世絵師に違いないが、彼の場合はその斬新さが目立つ。僕たちは北斎作品を見ることで、やがて明治維新を迎えようとする日本の変化をはっきりと感受することができる。北斎は来るべき新たな時代を用意した作家の一人である。
北斎と同様、英泉も当時流入していた西洋画の技法を受容していた。ただそれを新たな絵画表現の可能性だとは捉えなかった。あくまで浮世絵の新技法の一つとして取り入れた。極論を言えば英泉の浮世絵には江戸しか描かれていない。江戸の町が彼の世界の全てだった。江戸と明治を繋ぐ、早すぎた〝近代人〟の意識を知りたいのなら北斎作品を見るのがいい。しかしその闇の部分も含めて幕末江戸社会を知りたいのなら、英泉作品を見るのが一番手っ取り早い。
『美艶仙女香(びえんせんにょこう) 潮くさき・・・』 大判錦絵 縦38.2×横25.8センチ 文政7年(1824年頃) 財団法人 平木浮世絵美術館蔵
布団をかぶった女を描いた浮世絵である。吉原の花魁のような高級遊女ではなく、岡場所の遊女か私娼である。画面左上の四角の中に(『こま絵』という)船着き場が描かれているので船の中の情景だろう。上中央に『潮くさき美人やふねの朝霞』の句がある。仕事を終えて朝帰りする疲れた遊女の姿かもしれない。上右には『美艶仙女香といふ坂本氏のせいする名たかきおしろいに美人をよせて』という文字が刻まれている。美艶仙女香は坂本氏が販売していた白粉で、版元の要請なのか英泉の個人的繋がりなのかはわからないが、英泉の浮世絵に頻繁に登場する。現代のCMと同じで、英泉は美艶仙女香を浮世絵に描くことでいくばくかの対価を得ていたと思われる。
英泉の浮世絵には退廃の色が濃い。英泉の時代は歌麿が活躍した寛政時代から30年ほど後だが、女の描き方は劇的に変わっている。歌麿の、神々しいまでの気品を秘めた女の姿は消え去り、女性たちは生身の生活感をさらけ出している。現代人の目から見ても歌麿の描いた女の方が美しいと思う。しかし江戸の人にとってはどちらも同じ美人画だった。それは歌麿から英泉に到る30年ほどで、江戸の人の美意識が大きく変わったことを示している。江戸の人々は凛として隙のない歌麿美人よりも、内面をさらけ出すようにしどけない、どこか頽れた様子の英泉美人を好むようになったのである。
歌麿筆 『当世全盛似顔揃 兵庫屋内花妻 さくら にほひ』 大判錦絵 縦38.8×横25.9センチ 寛政6年(1794年頃) 日本浮世絵博物館蔵
英泉は寛政3年(1791年)に江戸星ケ丘(現在の赤坂山王日吉神社丘陵あたり)で生まれた。父は下級武士の松本政兵衛茂晴で、父が池田姓に復してからは池田を名乗った。6歳の時に母を亡くし、文化2年(1805年)には阿房北条水野壱岐守忠韶(あわほうじょうみずのいきのかみただてる)に仕えた。しかし5年後の文化7年(10年)20歳の時にに父と継母を亡くし、その上同僚の讒言によって職を追われた。まだ幼い妹3人を抱えた英泉は生活の糧を得るために浮世絵師・菊川英山(えいざん)に入門し、浮世絵師の道を歩み始めた。
以上の経歴は英泉が天保4年(1833年)に著した『無名翁随筆』(『无名翁随筆』『続浮世絵類考』とも呼ぶ)の記述である。英泉は『無名翁随筆』で自分が初めて遊女の生々しい生態を描いたのであり、ライバルの国貞の美人画もその影響を受けていると自信に満ちた言葉を記している。また仕事を放りだして遊郭で酔いつぶれていたなど、若い頃の遊蕩ぶりも明かしている。厳密に言えば真偽は定かでない。しかし同じく元武士だった広重(江戸八州河岸定火消同心)と比べても、英泉の頽れぶり、傾(かぶ)きぶりは激しい。英泉は文政12年(1829年)39歳の時には根津の花街で若竹屋里助を名乗り、女郎屋を経営していたことが知られている。
『鏡台前の女と若衆』 大判錦絵 縦27.2×横38.7センチ 文政前期(1818~30年頃) 千葉市美術館蔵
現代でも枕絵をどう扱うのかは浮世絵界の悩みの種である。言うまでもなく枕絵にはあられもない男女交合図が描かれている。時代を経て、また現代の基準から言えば極端にデフォルメされたその描写は大人にとっては興味深い時代資料である。しかし子供にはいまだに刺激の多い絵だ。そのため浮世絵界では大部数の公刊物ではおおっぴらに枕絵を扱わないのが一種の不文律になっている。今回の英泉展でも枕絵は基本的に外されていた。
しかし英泉の場合、枕絵はとても重要なのである。江戸の同時代人は、英泉を美人絵師としてではなく枕絵師として認識していただろう。英泉の退廃的な画風は枕絵でその本領を発揮した面が確実にある。また英泉自身が己の崩れに自覚的だった。英泉は枕絵を描くときに、しばしば『淫乱英泉』『淫乱斎』と署名している。そこには自嘲的であり、挑発的でもある英泉の自意識が見え隠れする。鈴木春信(はるのぶ)や歌麿のように、美人画を描くのと同じ姿勢で美しい枕絵を仕上げようという意図は英泉にはない。英泉はそれが下世話なポルノグラフィであることを自覚していた。
『唐美人』 大奉書全紙判摺物 縦38.6×横51.5センチ 文政8年(1825年) 署名:乙酉春應其成老人需 在京東部英泉写[泉] 千葉市美術館蔵
渓斎英泉編著画『好古集覧 皮究図考』 染皮図像集一帖 縦31.3×横21.3センチ 弘化2年(1845年) 版元:私家版 千葉市美術館蔵
『唐美人』は特定個人の依頼主の注文で作られた少部数の摺物である。依頼主は俳諧師兼俳書書肆でもあった其成である。英泉は多数の趣味的摺物を手がけている。その多くが同好の士がカネを出し合って制作・頒布した俳諧や狂歌集である。そこから英泉が同時代の知識人と親しく交わっていたことがわかる。またこのような摺物では文字の意味内容に合わせて絵を描かなければならないため、絵師にも教養が必要だった。
『好古集覧 皮究図考』は英泉晩年の作品で、甲冑などに使われた古染革を彩色刷りで再現した少部数の趣味的私家本である。英泉は天保頃からじょじょに文筆に力を入れ始めた。当時の最新学問である考証学(古文書の文字校訂や古物の時代判定を厳密に行うことによりそのオリジナリティを正確に把握しようとする一種のテキストクリティック学)に影響されて、地名などに関する考証本を板行している。『皮究図考』もその一つだが、そこには自らの出自である武士を捉え直そうという意図がある。当時の感覚で言えば下賤の浮世絵師に身を落としたが、英泉は最後まで武士の矜持を持った知識人だった。
為永春水作、渓斎英泉画『花名所懐中暦』 人情本四編十二冊 縦18.3×横12.1センチ 天保7~9年(1836~38年年) 版元:文永堂大島屋伝右衛門 千葉市美術館蔵
英泉の挿絵として最も有名なのは、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』である。英泉自身も当代きっての売れっ子作家の本の挿絵に奮起したようで、素晴らしい仕上がりになっている。しかし英泉が最も頻繁に挿絵を描いたのは為永春水だろう。『日本奇人伝』には『渓斎は画中頗(すこぶ)る文字在て。春水の作は悉く英泉が趣向を立て 他の名に付て著作あり』と書かれている。英泉が春水のいわゆるゴーストライターであることは広く知れ渡っていたようだ。別名で著述も行っていたようである。
ただ当時の知識人の一人だったとはいえ、英泉の人生は、画業は一貫していない。これだけ大量の作品が残っているのだから、英泉が自分で自慢(逆説的なものだが)するほど乱脈な生活を送っていなかったのは確かだろう。しかし英泉は時代と生活に流され続けた人だった。
ほかならぬ英泉の浮世絵を見れば明らかなように、貧富の差は激しかったが江戸は実に豊かな都市だった。人々は調度や着物にカネをかけ、料亭には贅沢な食べ物が並んでいた。膿のように溜まり続ける幕藩体制の矛盾を敏感に察知している人たちもいたが、日々の生活を第一と考えれば江戸は空前の繁栄を謳歌する太平の世だった。
ある意味で英泉は、現代のフリーライターのように、身過ぎ世過ぎとして注文があればどんな絵でも文でも作った。武士としての矜持は持っていたがそれを全面に押し出すことはなかった。もうとっくに新しい技法など出尽くした浮世絵の世界にどっぷりと染まっていた。既存の技法に多少のアクセントを加えるのが英泉時代の新基軸だった。
その姿は行き詰まりつつある現代社会に似ている。誰もが世界は大きく変わるだろうと感じながら、その方向性を捉えきれないので日々の仕事をこなし続けている。この意味で英泉の評価が浮世絵そのものの様式を確立した春信や歌麿、あるいは江戸と明治を繋ぐことになった北斎よりも低いのは当然である。しかし英泉の絵には凄みがある。英泉は流された人だが、彼の全世界であった江戸社会の底にまで堕ちた。岸田劉生の言葉を借りれば、英泉が描くなんとも言えない『デロリ』とした女の姿は、彼の心象画であり自画像でもあるだろう。
『瓢箪衣裳の傘さし美人』 大判錦絵縦2枚続 縦72.8×横24.5センチ 天保期(1830~44年頃) メーテレ(名古屋テレビ放送)蔵
ちょっとだけ個人的な思い出を書いておくと、だいぶ前に僕は実家で英泉の浮世絵を〝発見〟した。僕が高校生くらいから兄貴の部屋に掛かっていた額入りの浮世絵で、帰省した時に気になって調べたら英泉だった。兄は壁にボールをぶつけて遊んでいて、跡が残ったのでそれを隠すために納屋からこの額を出してきて掛けたそうだ。『ゆずってよ』と言うと『やる』という返事だったので、僕がもらい受けた。ただ父親に聞いてもどこからこの絵が紛れ込んだのかわからなかった。『多分爺さんが誰かにもらったんだろう』と気のない答えだった。
今回の展覧会には出品されていないが、『永代橋娘行裂図』と題された3枚続きの大判錦絵である。版元は日本橋通二丁目総州屋与兵衛なので、文政中期(1818~30年)頃の作だろう。現実にはありえないが、娘たちだけの大名行列が描かれている。この浮世絵が単に美人を愛でるためのものなのか、微かな体制批判を含んでいるのかはわからない。ただこのような奇妙な絵に驚き、それを愛好した江戸の人々の心に思いを馳せることから、浮世絵への興味は芽生えていくのではないかと思う。
『永代橋娘行裂図』 大判錦絵縦3枚続 縦37.7×横75.9センチ 文政中期(1818~30年)頃 著者蔵
鶴山裕司
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