No.20 奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている
於・横浜美術館 会期=2012/07/14~09/23、その後、青森県立美術館(2012/10/6~2013/01/14)、熊本市現代美術館(2013/01/26~04/14)を巡回
入館料=1200円(一般) カタログ=2940円
評価=総評・80点 展示方法・80点 カタログ・80点
奈良美智について書くのは辛い。だから今回の批評は短いものになるだろう。この時評では便宜的なものとはいえ、展覧会を点数で評価している。それも投げ出したい。平均点にしたのは評価したくない、できないからである。
奈良の絵を初めて見たのは1990年代だったように思う。なんて素敵な画家が現れたものだろうと思った。その後の評価は御存知の通りである。奈良について語る時は〝世界的アーチスト〟という呼称が定冠詞のように付けられるようになった。
恐らく混んでいるだろうと思ったので、閉館間際の時間を狙って横浜美術館に行った。入場制限は行われていなかったが、多くの人が詰めかけていた。僕はあんなに混雑した横浜美術館を初めて見た。アートショップには長蛇の列ができていて、みな手にたくさんの奈良グッズを抱えていた。その多くが20代から30代くらいの若い人たちだった。
正直に言えば、奈良はよく正気を保っていられるものだと思う。奈良に限らないが、自己の評価が高まるのは作家にとって喜ばしいことである。ただそれが過熱の域に達してしまうと重荷になるのではないかと思う。僕のところにも毎月のように画廊の販売用カタログが送られて来る。奈良の絵の値段は高騰している。彼のせいではない。だが気楽に描いたドローイングにすら数十万円の値段が付いている。手を触れた物が全部カネに換わってしまうようなものだ。どの画商でも喜んで奈良の絵を扱うだろう。奈良の絵の値段は横山大観や速水御舟らといった日本を代表する画家たちよりも高い。市場原理なのだから仕方がない。しかしなにかがおかしい。だがそれが現実である。奈良はその過熱した市場原理の中心にいる。
奈良は世間を狭くして暮らしているように思う。メディアへの露出は最低限にまで制限して黙々と絵を描き続けている。ぼんやり見ていれば、奈良は若くして世界的評価を得た幸福な画家だろう。熱狂的な賞賛の渦の中にいるように見える。しかし奈良本人の耳には、賞賛よりも批判の方が響いているのではないかと思う。奈良絵画批判には、過熱した市場価格への反発が確実に含まれている。批判は〝そんなにいい画家か?〟と問いかけている。あと100年もして奈良が美術史上の人になったら、このような批判的〝棘〟は消えるだろう。誰も値段など気にしなくなる。しかし異様に高い評価を受けている若い現存画家であることが、様々な問題を引き起こす。奈良自身は身を律しているとはいえ、ほとんどロックスターや映画スターのように扱われている画家を見ているのは辛い。
奈良はいい画家である。それ以上、あまり言いたいことはない。僕は有元利夫や三木富雄のように奈良の絵を愛している。有元は昭和21年(1946年)に生まれ、昭和60年(1985年)に38歳で夭折した画家である。有元の絵は20代の頃にはほぼ完成していた。彼の絵には、恐らく17世紀から18世紀くらいの服装で、ヨーロッパ人なのだろうが、国籍不明の女が現れる。彼はこの女を生涯描き続けた。長生きしていても、この女以外は描かなかっただろうと思う。有元の絵についてしばしば言われるバロック芸術の影響などはそれほど意味がない。有元はこの女に〝選ばれた〟画家である。
有元利夫 『夜の森』 90.9×60.6センチ 昭和59年(1984年)
三木富雄 福岡市美術館蔵
三木富雄は昭和13年(1938)に生まれ昭和53年(1978年)に40歳で亡くなった彫刻家である。彼は生涯、ほとんど耳の彫刻だけを作り続けた。『なぜ耳ばかり作るのか』という批判に答えて別系統の作品も試みたが、耳に戻ってきた。三木は『私が耳を選んだのではなく、耳が私を選んだ』と言った。三木もまた耳に〝選ばれた〟作家だった。
奈良はどこか少女の面影を残した女性の正面像を好んで描く。奈良の表現の全ては、正面を向いて目を開き、無表情で立っているただ一人の子供の顔のバリエーションである。彼はこれからも様々な絵を描くだろうが、無表情の女の子の正面像に、その唯一のイメージに回帰してくるだろう。奈良の絵は単なるイラストだという批判は無意味である。奈良の絵は選ばれた人のものだ。奈良はこの少女に魅入られ、選ばれた画家である。至福の画家であり、呪われた画家だとも言える。
奈良美智 Cosmic Eyes(未完) 259.5×249.5センチ 平成23年(2012年)
もしアンケートをとれば、多くの人が正面を向いた無表情な女の子の絵が一番好きだと言うのではないかと思う。今回の展覧会のタイトル『君や 僕に ちょっと似ている』は奈良自身が付けた。序文も彼が書いている。短いが単純な文章ではない。彼は孤独な心で見る人に語りかけている。おずおずと、恥じらいもこめて〝ちょっと似ているだろ〟と囁いている。またそれらは確かに、奈良の作品であって奈良の作品ではない。この少女のイマージュは遠いところからやってきた原初的な何者かである。
僕も奈良の絵の過熱評価に振り回されている。恐らく奈良が、作品に対する不当な評価に対して大声で反論できなくなっているように(それは社会的事件として取り上げられてしまうから)、僕も奈良の絵についてストレートに物が言えなくなっている。奈良は絵を描くことが本当に好きな〝絵描き〟の一人だと思う。作品が売れなくても、売れすぎても、結局は〝個〟でしかない作家は孤立を感じる。『また子供の絵だね。でも君の絵はいいよ』と軽口を叩けるなら、どんなにか気楽だろうと思う。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■