今月号は野崎まどさんの『小説』が全編掲載されています。四年ごしの最新作です。で、『小説』というタイトルを見た時、え、小説現代様が前衛小説? と思ってしまいましたわ。今でも時々純文学文芸誌には前衛小説が掲載されます。小説についての小説、つまり自己言及小説でございますわね。そのテの小説が手を替え品を替え書き続けられています。
ほんでアテクシ、前衛小説がイマイチ好きじゃないのよねぇ。ま、ガチガチの純文学小説も好きじゃありませんけどね。だいたいですねぇ、古今東西、読むのが禅の修行のように辛い秀作・傑作ってありますぅ? 秀作・傑作ってたいてい面白いのよ。どんどんページをめくっていくわけ。あー大変と思って読むのが途中で止まっちゃう小説って、その時点で秀作・傑作の条件を外れていませんこと?。
もちジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』など文学史上に燦然と輝く前衛小説はございますわ。でも『フィネガン』と同等に評価されている前衛小説ってありますぅ? ああいう小説は時代の大きな変化の時期に一冊書かれればそれでいいのよ。もちろんアテクシ、ずーっと昔に一般教養のつもりで読みましたわよ。でもまったく内容は覚えていません。我慢してとにかく読んだだけ。もしも「フィネガンどう思う?」って聞かれたら、「あー傑作ですねっ、読んでないけどすんごい傑作ですぅ」って答えておけばいいの。どこが傑作かって聞かれても、たいてい判で押したように言語実験がどーのこーのとかしか答えられないんだから。英語ネイティブでも敬遠する小説ですけどね。
で、野崎さんの『小説』が前衛小説かと言えば違います。小説を書くこと、読むことを巡る本当に基本的というか原理的な問いかけに答えを求めた小説ね。こういうふうに書くと小難しい小説だとお思いになるかもしれませんが、ぜんぜんそんなことはありません。アテクシ、一気に最後まで読んでしまいましたわ。とてもスリリングで面白い小説でございます。
「何の本読んでるの?」
敬語で話すのか砕けて話すのかも決めかねた、覚束ない呼びかけだった。
「『龍馬がゆく』」
内海集司が文庫本の背表紙を見せる。義務的な質問に事務的に答える。案の定、外崎は本のタイトルを伝えても茫洋とした顔をするだけだった。(中略)それでも外崎はめげずに「面白いの」と話を続ける。
内海集司は返事を考えた。(中略)面白いと答えるだけでは『龍馬がゆく』の面白さは全く正確に伝わらない。(中略)僅かな逡巡の後、内海集司は外崎をそこに待たせ、一度教室に戻って『龍馬がゆく』の一巻を取ってきて渡した。(中略)外崎は面食らいつつも本を受けとった。驚いているのかまだぼんやりしているのか有難うも何も言わなかった。よだれでもたらしそうな顔だと内海集司は思った。
野崎まど「小説」
主人公は内海集司と外崎真です。二人は小学六年生の時に親友になった。図書館で『龍馬がゆく』を読んでいた内海に外崎が声をかけてきたのがきっかけです。内海は五歳の時から小説に夢中でたくさんの小説本を読んでいました。対する外崎はまったく読書に無縁で内海が勧めた『龍馬がゆく』が初めての読書体験でした。しかし外崎は内海と同じように小説に夢中になります。二人は親友になりますが普通の友だちとは違います。二人揃って黙々と小説本を読みふけるのです。
髭先生は特段の抵抗もなく内海と外崎の小論文を読んでくれた。最初に内海の方を読み、頷いたりニヤリと笑ったりまた頷いたりするので内海はその反応に一喜一憂させられた。(中略)原稿用紙十数枚分の論文を読み終えた髭先生はよく書けてると言った。(中略)続けて外崎真の論文が読まれた。髭先生は頷かず、にこりともせず、終始無言で、最後に少しだけ眉根を寄せた。そうして読み終えてからまぁ、通るよとだけ言った。
感想を聞いた外崎は不安で泣いていた。(中略)内海集司も意を決して外崎の論文を読んだが、感想が違うのは当たり前だった。内容と、意味と、宿っているものがまるで違う。内海集司は静かに一筋だけ涙を流した。羨望とか嫉妬とか、そういう類のものでは到底届かないような未踏の海の向こう側を読んだせいだった。(中略)どう直せばいいのと狼狽する外崎に内海はこのまま出すと伝えた。結論から言えば外崎の論文は小泉信三賞の次席を獲得し無事留年を回避する。
同
内海と外崎は謎の小説家・髭先生と知り合いになり、彼の書庫で小説を読み耽ることを許されます。髭先生、この小説で大変重要な役割を担った登場人物です。それはともかく内海と外崎は進学校の高校に入学しますが、小説ばかり読んでいるので成績は振るわない。特に外崎は留年ギリギリで、担任に泣きつくと慶応大学主催の小論文コンテスト、小泉信三賞に入選すれば留年は回避させてやると言われます。常に兄貴分で気の弱い外崎を先導する内海は論文を書かせます。が、付き合いで自分も書いて応募することになる。その応募論文をプロ作家である髭先生に読んでもらったのです。
髭先生に続いて内海も外崎の論文を読みますが、「静かに一筋だけ涙を流した」とあるように才能の違いは明らかでした。五歳の時から小説を読みふけっている内海には、外崎の文才が手に取るようにわかった。ただ外崎は自分の才能に気付いていません。
「内海君はさ」
酔った外崎が言った。
「書かないの?」
たわいない質問だった。外崎に何の他意も無いことなど内海集司がこの世で一番知っていた。けれど心の何かが、器から溢れた。知っていたが、堪えられなかった。(中略)
「俺が書きたいと言ったか。(中略)
小説を読んで何かをしたいと言ったか。
小説から得たもので現実を変えたいと言ったか。
現実のために読んでいると言ったか。
現実が一番で小説が二番だと言ったか。
俺は違う。
俺は書きたくない。
俺は。
読みたいだけだ。
駄目なのか。
それじゃ駄目なのか。
読むだけじゃ駄目なのか」
同
二人は大学卒業後もいっしょです。同じアパートで暮らしています。ただちょっとした変化があります。内海はアルバイトをしながら相変わらず小説を読んでいますが、外崎の才能を見抜いた内海は彼に小説を書かせます。生活能力のない外崎を助けてやりながら。そして三十歳の時、外崎はある文芸誌の新人賞を受賞します。授賞式の後、二人だけで打ち上げをした際に、外崎に「内海君は書かないの?」と聞かれた内海は自分の心の内をぶちまけます。
早熟な内海は外見も小説家っぽい剣呑な風貌です。それに対して外崎は風貌も態度も茫漠としている。しかし文才があるのは外崎の方で、それが小説新人賞受賞で形になります。
では『小説』という作品が内海青年の挫折物語かというとそうではありません。彼の「読むだけじゃ駄目なのか」という心の叫びに答えを求め与えた小説です。それは小説を書く外崎も同じです。彼は名誉やお金のために小説を書いているわけではない。いつの頃からか書きたいから書いているだけ。小説を書かずにはいられなくなっています。外崎の小説を書く理由についても内海と同等の問いが発せられ答えが与えられます。
『小説』は後半になると探偵小説、ファンタジー小説、SF小説の技法を取り入れ、理論もエントロピーからビックバン宇宙論までが幅広く援用されます。しかし難しいわけではありません。最終的ななせ読むのか、なぜ書くのかの答え(落としどころ)はしごく常識的なものです。ただし非常に熱量が高く、物語の運びも面白いので説得力があります。
産業として見れば小説界が年々厳しくなっているのは周知の通りです。万年不況の態勢を整えている純文学小説誌より大衆小説誌の方がその煽りを食らっているかもしれません。ただ純文学小説界では相変わらず大昔の文豪幻想が生き延びている気配です。そんなもの、とっくに消え去っているのに。それに対して大衆小説系の作家と雑誌から、『小説』のような〝なぜ小説を読むのか、なぜ小説を書くのか〟という真摯な問いが発せられ、その答えが求められたのは特筆すべきことです。大衆系小説家の方が危機に敏感でマトモだとも言えますわね。大衆文学系作品の純文学作品だと思います。秀作でございます。是非実際にお読みになってみてくださいませ。
佐藤知恵子
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