阿部暁子さんの長編小説「カフネ」が一挙全編公開されています。五月二十二日に発売予定(雑誌掲載時)とインフォメーションされていますから、もう刊行されていますわね。
このお作品、よくできていますわ。よくできているなんて誠に誠に僭越なんですが、いわゆる大衆小説的な伏線をこれでもかというくらい張り巡らし、それをキッチリ回収しながらそれ以上の感動を与えてくれます。泣かせる箇所もたくさんあって浅田次郎さんみたい。畳みかけるように事件が起こっていく物語展開が出来すぎ、という感想がチラッと浮かんでしまうのも浅田次郎さん的なんですが、じゃ、こんなによくできた小説がそうそうあるかと言うと思い浮かばない。傑作と言っていいと思います。
「カフネ」の主人公は薫子です。四十一歲で法務局に勤めている公務員。小さい頃から頑張り屋さんで真面目な性格です。ただ子宝に恵まれず何年も辛い不妊治療を行いましたがうまくいきませんでした。そのうえ夫の公隆に離婚されてしまいます。文字通り離婚届を突き付けられたのです。公隆は「本当にごめん。くり返すけど非があるのは僕だ。薫子が混乱するのも無理はないし、君が落ち着いて受け入れられるまでちゃんと待つよ。ただ、僕の中でこれはもう覆らないことだということは、どうかわかってほしい」と言いました。薫子は当然浮気を疑い私立探偵を頼んで身辺調査しましたが女の気配はありません。公隆は弁護士で意志の固い人でした。薫子と同様に真面目な性格で嘘をつかない人でもある。納得できませんでしたが結局薫子は離婚を承諾したのでした。
しかし薫子の試練はそれだけで終わりませんでした。公隆と別れて三カ月もしないうちに十二歳年下の弟の春彦が突然亡くなってしまったのです。誰からも愛される明るい性格の弟でした。自宅マンションで亡くなっているのを会社の同僚に発見されたのです。不審死なので解剖も行われましたが事件性はなかった。急性心不全かもしれませんが原因不明です。薫子は悲嘆に暮れますが死後、意外なことが判明します。春彦は生前に遺言書を作成して法務局に預けていたのです。二十九歲と若かったのですが堅実で友達に勧められて買った株で儲けたりしていてそれなりの遺産があった。それを春彦は、もし自分が死んだら両親と薫子、それに小野寺せつなに三等分してほしいと遺言していたのでした。
薫子は一度せつなに会っていました。春彦が実家で両親にせつなを紹介した時にいっしょにいたのです。「カフネ」という家事代行サービス会社に勤めている女性です。春彦と同い年で誕生日も同じ。運命的な結びつきですね。しかしせつなはまったく春彦とラブラブの女性ではありません。
両親は薫子に厳しく、しかし母親は春彦を溺愛していました。料理の仕事をしていると言ったせつなに、母親は値踏みするように「私もプロの方のお料理、ぜひ食べてみたいわ」「何かお酒に合うものをお願いできる?」と言ったのでした。せつなは「かまいませんが、三千円いただきますよ」「それが私の時給なので。本当は交通費もいただくんですが、ご挨拶にうがかった身なので、今回はおまけしておきます」と即答しました。
当然両親は口あんぐりでせつなの印象はよくありません。しかしそれが普段通りのせつなでもあります。背が高くいつも仕事着のデニムのつなぎ服を着てゴツい黒のコンバットブーツをはき、髪をおだんごにまとめている女性です。常に戦闘態勢といったところですね。しかも薫子は春彦が亡くなる直前にせつなとは別れたと聞いていました。春彦は元恋人に遺産を残したことになる。
なぜ薫子は公隆と別れたのか、まだ若いのに春彦はなぜ遺言書を作成していたのか、別れたせつなになぜ遺産を分けることにしていたのか、なぜせつなはいつもぶっきらぼうなのか、春彦は本当に自然死だったのか、薫子は子どもができなかった痛みをどう乗り越えるのか、といった謎は、すべて、見事に、キレイなまでに解かれます。「カフネ」というせつなが勤めている会社の名前の由来までも。
それはお作品を読んでお楽しみいただければと思いますが、このお作品の強い魅力はそういった謎解きだけではありません。このお作品は女性作家にしか書けない女性小説です。女の内面が描かれているからではありません。薫子とせつなという、性格も生い立ちもまったく違う二人の女性の交流から根源的生命力が鮮やかに描き出されています。
「あなた・・・・・・魔法使いみたいね」
「かわいいこと言うんですね」
たぶん初めて笑みを見せたせつなは、薫子の手もとに紙ナプキンを敷き、銀色のスプーンを置いた。紙ナプキンなんてあった? と目を凝らすと、料理中に手を拭いたり揚げ物の敷き紙に使ったりしているキッチンペーパーだった。きれいな鈴のような形に折ってあるので、よくよく見なければわからない。
「溶けないうちにどうぞ」
促されて、スプーンを取った。
てっぺんの苺は最後の楽しみに取っておいて、白いクリームとスポンジケーキが作るなだらかな丘にそうっとスプーンを入れる。水脈を掘り当てたように艶やかなチョコレートソースがあふれ出してきて、胸がときめいた。そう、このパフェを見た瞬間から、ずっとときめいているのだ。チョコレートソースを絡めたクリームとスポンジケーキを口に入れる。甘い。アルコール以外は何も欲しくないと思っていたはずなのに、たっぷりと豊かな甘みが口の中に広がったとたん、体中の細胞が息を吹き返したような感覚があった。次へ、次へとスプーンが止まらない。ミルクの匂いがするバニラアイスと、清々しい抹茶味のアイスが口の中で一緒にとろける。甘酸っぱい苺がチョコレートとクリームと絡んで、贅沢な味を口じゅうに広げる。
「おいしい・・・・・・」
阿部暁子「カフネ」
真面目でしかも法務局勤めの薫子は、亡き弟の遺言を果たそうとせつなに会います。しかしせつなは「いらないって」「もらう理由がないですから」と取り付く島もありません。薫子はせっかくの弟の遺志なのにと激昂し、せつなと会った喫茶店で倒れてしまいます。軽いめまいのような卒倒ですが、ぶっきらぼうな態度を崩さないまませつなが家までタクシーで送ってくれます。「もう大丈夫だから」と言う薫子を押し切って部屋の中までついてきてしまう。
薫子は部屋を見られたくなかった。仕事はなんとかこなしていましたが、公隆と離婚し春彦が亡くなってから生活が荒れていたのです。部屋の中は散らかり放題でチューハイのロング缶が転がっていました。
薫子は四十一歲の誕生日に一人で誕生日を祝おうとたくさん買い物して家に帰ります。が、様々な出来事が重なって荒れます。泥酔してせっかく買ったキレイなケーキの箱をひっくり返してしまう。しかも遺産のことでもう一度話したいとメールして返信ナシだったせつなから電話がかかってくる。電話を切ったあと、思いがけずせつなが家に訪ねて来ます。
「朝からお腹痛いし夫には離婚されて母親には息苦しいって言われて、ちっともおめでたくないしうれしくなんかないけど四十一歲の誕生日なの! ケーキもぐちゃぐちゃで春彦も死んじゃったけど、今日くらい嫌な思いも不安な思いもしないで気持ちよく眠りたいの! それがそんなにいけないこと!? お酒だってちゃんと自分で働いてもらったお給料で買ってるし、納税だってしてるじゃない!」薫子は心の内をぶちまけます。
「ぐちゃぐちゃって、パックの中の話じゃないですか。全然食べられますよ」そう言うとせつなは手早くパフェを作ってくれます。しかもキッチンペーパーでキレイな鈴のような形の紙ナプキンを作り銀色のスプーンを添えて。せつなは凄腕の料理人でした。
「甘みが口の中に広がったとたん、体中の細胞が息を吹き返したような感覚があった」
この言葉に「カフネ」という小説の本質的主題が表現されています。
キッチンペーパーで手を拭いたせつなは、薫子たちのほうへ歩いてくると、鈴夏のかたわらにしゃがみこんだ。
「でも、いつかちゃんと全部終わるから。裕福な人も、貧しい人も、うまくいっている人も、何もうまくいかない人も、死ぬことだけは全員同じだから。だから大丈夫だよ」
ビニール手袋をつけた手で金色のチャーハンをすくい取ったせつなは、優雅な手つきで握り始める。鈴夏に作り方をみせるように。
「でも栄養が意味ないっていうのはいただけない。死ぬまでは生きなきゃいけないし、健康じゃないと生きるのはますます苦しくなる。なるべく快適に生きるためにも栄養は必要。あとね、おにぎりを作れるようになると、人生の戦闘能力が上がるよ」
ほら、とせつなが魔法のように美しい三角おにぎりをさし出すと、鈴夏はずいぶんためらったあと、顔を前に出して、三角おにぎりのてっぺんをそっと囓った。
チャーハンを噛みしめる数秒のあと、ぽつんと声がこぼれ落ちた。
「おいしい・・・・・・」(中略)
午前に訪問した岡崎邸でもそうだった。料理をしている時の彼女は無心で、澄んでいる。食べるということを信じているように、見える。
同
反発しながら薫子はせつなに興味を持ち、「カフネ」が行っている無料家事代行サービスを手伝うようになります。カフネは有料のサービスのほかに、家事代行を必要としている人たちに無料サービスの提供もしていました。部屋を散らかし放題にしていましたが薫子は掃除が得意なのです。カフネ代表の斗季子は「目的は、毎日の家事に溺れそうになっている人の助太刀です」と言います。お金に余裕がある人が家事代行を頼むわけですが、本当にそれを必要としている人たちのための無料サービスです。
掃除担当の薫子と料理担当のせつながタッグを組んで訪ねて行った家は母子家庭でした。お母さんは疲れ果てている。娘の鈴夏は小学五年生ですが薫子に「なんでお金ももらえないのにこんなにがんばるの? 私いいことしたーって思いたいから? それとも哀れみ? うち貧困家庭だもんね。お向かいの家のおばさんも、わたしの顔見るたびに、こども食堂に来いってうるさいの。(中略)そういう人たち、大っ嫌い」と毒づきます。
薫子はたじろぎますがせつなは動じません。「死ぬまでは生きなきゃいけないし、健康じゃないと生きるのはますます苦しくなる。なるべく快適に生きるためにも栄養は必要」と身も蓋もない言葉を鈴夏に投げかけ、作ったチャーハンでいっしょにおにぎりを作らせます。せつなの料理がおいしいことは言うまでもありません。なぜなら彼女は「食べるということを信じているように、見える」からです。「見える」、という留保もまたこのお作品の謎解きの一つなのですが、それも実際に小説を読んでお楽しみあれ。
ただ杓子定規になりがちな貧困問題をこういう説得力のある形で提示した小説は珍しい。ほとんどありません。また貧困問題という社会問題を扱っているという言い方自体も正確ではないような気がします。
このお作品には薫子の元夫の公隆、突然死してしまった春彦という男たち、それにクライアントにも男性が登場します。しかし本質的には女性たちだけの物語です。男たちは女性たちに大きな喜びとそれ以上の苦しみをもたらします。しかし極端なことを言えば、女性たちの共同体はそんな喜びも苦しみも溶かしてしまうようなところがある。
女性たちは料理すること、食べること、それを華やかに彩ることで繋がっています。そこに生きる力があることを知っている。それは堅苦しく杓子定規な社会問題を超えています。
このお作品はプロット展開の見事さから言ってじゅうぶんドラマになり得ます。恐らくドラマ化されると思います。しかしこのお作品の繊細な主題は小説という文字媒体でなければ正確には伝わらない。是非お読みになってくださいませませ。
佐藤知恵子
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