乃南アサさんの「マザー」は「セメタリー」「ワンピース」「ビースト」「エスケープ」「アフェア」の五編から成る短編集です。それが一挙掲載されています。単行本一冊分ですわね。
例によって数えてませんけど、一編40枚くらいかしらね。今の新人賞ってどんどん応募規定原稿枚数が増えてますけど、昔は(えっらい昔ですけど)4、50枚くらいって時代がありましたわね。小説で40枚ってけっこう長いのよ。私小説全盛時代のお話ですけど。
乃南先生はストーリーテラーですからどのお作品も設定がしっかりしています。作家様にも得意不得意があって、心理描写がお得意の作家様もいらっしゃるし、ストーリーで引っ張る作家様もいらっしゃいます。乃南先生はどちらかというと後者の方ね。
総タイトルが「マザー」であることからわかるように、各短編の主人公はマザー、お母さんです。お母さんというより〝女〟ね。現代では法的にはほぼ男女平等が認められていて、LGBTを含めてダイバーシティ、多様性容認の世の中になってはいますけど、「マザー」で描かれているのは近過去の昭和時代に青春時代や中年時代を過ごした女たちです。それが現代の多様性に触れていく、といった展開ですわ。
近過去の女たちは、杓子定規に言えば抑圧されていました。夫と子どものために、あるいは舅姑のために心身をすり減らしていった。もちろんそういう女ばかりではないのですが、「マザー」ではそういった今では近過去の抑圧された女をモデルにしています。
そういう女は不幸です。ただ不幸という感情は幸福という感情あるいは理想と対になっています。江戸や明治時代の女の幸・不幸と現代の女のそれが違うのは言うまでもありません。毎日飢えずにご飯を食べていけるだけで幸せという時代があり、ご飯の心配をしなくていい時代の幸せというものがあります。ただ人間皆年を取ってゆく。年を取るということは時代が変わってゆくのを目の当たりにするということ。
それを実感させるのは多くの場合子どもたちです。子どもたちの時代は一昔前より自由度が上がっている。もちろん子どもたちは子どもたちで、昔よりずっと自由な世の中で抑圧を見つけ、それにあらがい、自分の子どもたちのさらなる自由をうらやましく思ったりします。どこまで行ってもキリがないわけですが、その結末は小説というフィクションにはうってつけです。
母は、文字通り我が家の太陽のような人だった。陽気で、常に家中をきれいに片づけ、磨き上げて、料理に勤しみ、陽だまりで糠をふるいにかけたり、祖母が干した洗濯物を取り込んで丁寧に畳んだり、綻びを繕ったりしていた。そんな風に忙しくしながらも年がら年中、買い物のついでなどに笑いのたねを集めてくるのだ。魚屋さんで聞いた話、お肉屋さんの前ですれ違った人の奇妙な行動、酒屋の配達人から聞いた噂話などで家族の笑いを呼び起こす、岬樹から見たら天才のような人だった。代わり映えのしない毎日を過ごしているはずなのに、どうしてと思うほど面白いことを見つけ出してきては、家族の笑いを誘うのだ。
乃南アサ「マザー」より「セメタリー」
連作は低空飛行から始まる感じです。最初の短編は「セメタリー」。墓のことです。語り手は岬樹で三人兄弟の末っ子。上から男、女、男です。岬樹の家は田舎にあって祖父母、父母、兄弟三人の大家族でした。その中心にいたのは朗らかで働き者の母親。ただしタイトルが「セメタリー」であることから想像がつきますよね。岬樹が子ども時代を過ごした「本当に「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」と似た光景だった」家の雰囲気はすべてうわべのものでした。「太陽のような人だった」母親は我慢に我慢を重ねていた。それを子どもたちのために隠していた。
長男は商社に勤めてアメリカに赴任し、現地でアメリカ人女性と結婚してアメリカに帰化します。長女は北海道に嫁に行く。語り手で次男の岬樹はテレビ局に勤め、そこで知り合った女性の婿養子になります。それを母親はあんたたちの自由にしていいからと許してくれます。兄弟三人(正確には兄妹(or姉)弟なんですが、この場合、日本語ではどうきょーだいって表記すればいいのかしらね)はほとんど実家には帰りません。母親が子どもが結婚しようが父親が亡くなろうが帰ってこなくていいと言うからです。コロナの影響でもあります。
この母親、祖父母(義父、義母)と夫を自らの手で、あるいは未必の故意で「セメタリー」に送り出します。そして父親の戸籍から籍を抜くいわゆる死語離婚で旧姓に戻って実家で暮らしています。母親は彼女なりの自由を遅ればせながら行使した。怖いといえば怖いお話なのですが、当然という気もします。しかしそんな自由にはまだ先が、奥があるはずです。
「私ね、娘が家を出て行ったとき――もちろん、あの子には幸せになってほしいと思っていますけれど、その一方で、思わず『バンザイ』って、一人家の中で小躍りしちゃったんですよ。もともと父親似で、今でも父親と頻繁に連絡を取り合っている子ですから、私とはそりが合わなかったっていうことも、あるのかも知れませんけれど」
やっと一人になれた。
やっと誰からも束縛されなくなった。
そう思った途端に、まるで女学生に戻ったように、今さら無理と分かっていながら、「女優みたいに過ごしたい」と思うようになったのだ、と佐野さんは言った。
「何も新しい男性と恋愛したいとか、そんな面倒臭いことは露ほども考えてはいなかったんです。でもお化粧や服装が変わったら、自然に声をかけて下さる方がいらして。私は、夫以外の方と、お付き合いどころか満足にお話ししたことさえありませんでしたから、それがとても新鮮で」
「それで、色んな方とお付き合い――っていうか、そのぅ」
乃南アサ「マザー」より「アフェア」
最後の短編は「アフェア」。連作が進むごとにじょじょに小説の圧が上がってゆきます。
語り手はあるマンションの管理人。六十五歲で定年退職した途端に妻から離婚され、財産分与に加え、子どもたちの学費や家のローンを払うと老後資金が吹っ飛び、やむなくマンションの住み込み管理人になった男性です。
100戸ほどのマンションですがそれも一つの社会です。佐野さんという七十代の女性の娘さんが結婚で引っ越してゆきます。その直後から佐野さんの様子が変わり始めます。化粧が派手になり、地味だった服装も華やかなものに変わる。それだけでなく、マンションの独居老人と親しげに話しながら出かけて行ったりします。どの町内にも噂好きの人がいて、佐野さんのことを「エロババア」とか「好き者」と言いふらしたりもします。
ある日管理人は街で佐野さんにバッタリ会い、話しかけます。佐野さんはキレイに化粧して着飾っていた。
佐野さんの家は貧しく高校を出たらすぐに働いて実家に仕送りしなければならなかった。勧められるまま結婚して二人の子どもを育てた。しかし夫は暴力こそ振るいませんでしたが、いわゆるモラハラで佐野さんを家政婦か何かのように扱った。しかも外に女がいた。佐野さんは子どもたちが大学を卒業すると夫と離婚します。ただ子どもたちは父親が浮気していたことを知りません。むしろ父親の味方で母親を勝手な女だと思っている節がある。
佐野さんは少女の頃女優に憧れていました。娘を嫁に送り出したあと、自由になった佐野さんは少女の頃の夢を叶えようと思います。もちろん本当に女優を目指すわけではありません。「今さら女優なんて思いもしていませんけれど、それでも普段の暮らしの中で、『私ではない私』を演じたかったんですよね」と管理人に話します。では『私ではない私』とは何か? 誰か? いったい〝私〟はどこにいるのでしょう。
〈お洋服やアクセサリーを好きなだけ買って、誰に遠慮することなくお金を全部使い切りました。保険もほとんど解約しました。残っているものは一つだけ。それで死亡保険金が下りるはずです。この部屋の始末を含めて、後のことはよろしくお願いします。私は、何も後悔していません。最後の最後に、本当にいい一年を送りました〉
メモを手にしたまま、リビングに続く佐野さんの寝室の方を見る。するとこちらも部屋中に、やはりまるで花園のような色彩が広がっていて、ベッドの上に佐野さんが横たわっていた。何がどうということは分からないが、それでもひと目見て、もう生命がないと分かった。
同
残酷で美しい短編集の大団円ですわ。自殺か自然死なのかを問うのはあまり意味がありません。身も蓋もないことを言えば、本当に自由になった人は一人で死ぬのです。それが自由の貫徹というものです。よい短編集でございました。
佐藤知恵子
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