「新版全歌集刊行記念 三ヶ島葭子の見た世界」が組まれています。読みは「みかじまよしこ」さんです。勉強不足で恥ずかしいのですが三ヶ島さんの短歌は特集で初めて読みました。1993年に短歌新聞社から『定本三ヶ島葭子全歌集』が刊行されていますが角川書店から30年ぶりに『新版三ヶ島葭子全歌集』が刊行されたのを記念した特集です。こういった特集は大変ありがたいです。勉強になります。
総論「透徹した心眼のうた」を執筆しておられる秋山佐和子さんによると三ヶ島葭子は明治19年(1886年)埼玉県入間郡に小学校長の長女として生まれました。石川啄木や萩原朔太郎や平塚らいてふらと同い年です。
埼玉県女子師範学校に入学しましたが結核で退学しています。尋常高等小学校の代用教員をしながら短歌を発表し与謝野晶子に認められます。晶子の推薦で当時の有名誌「スバル」や「青鞜」に短歌を発表するようになりました。
大正3年(1914年)倉片寛一と結婚。長女みなみを生みますが結核が再発。みなみは夫の両親に預けられます。夫は仕事で大阪に単身赴任しますがその間に愛人を作りそれどころか帰京すると葭子と3人で暮らし始めます。妻妾同居です。また東北帝大教授・石原純と原阿佐緒との不倫をかばったという理由で所属していた「アララギ」を破門になってしまいます。原阿佐緒は恋多き女流歌人として有名ですね。大正時代のモガ(モダンガール)というと原阿佐緒が思い浮かぶくらいです。
葭子は昭和2年(1927)年結核で逝去。享年40歳。生前刊行の歌集は『吾木香』一冊のみですが約6千首の歌を残しました。異母弟に左卜全がいます。
ほんの少し三ヶ島さんの人生をおさらいしただけですがなんだかしんみりしてしまいます。苦労の多い人生を送った方でした。短歌にも当然それが反映されています。特集原稿で尾崎まゆみさんが「三ヶ島葭子は、寂しい人生の印象が強すぎて作品の読まれ方も、その印象に影響されがちなのだが、短歌には不思議な魅力がある」(「水銀と蕾とごむ毬)と書いておられます。三ヶ島さんの人生と短歌を切り離すことはできません。では彼女の歌にどんな「不思議な魅力」があるのでしょうか。
ケツをまくってしまうようなことを書くと全歌集刊行のお祝い特集ではできる限り歌人の業績を称揚するのが礼儀です。万が一僕が原稿を依頼されたとしてもそうします。またもちろん没後100年近く経って改めて全歌集が刊行される歌人は間違いなく優れた歌を残している。ただ祝賀を離れればもう少し冷たい評価にならざるを得ないと思います。
あたらしき年の始ともろともにあたらしきこと学ぶうれしさ(明治37年)
あめつちのあらゆるものにことよせて歌ひつくさばゆるされむかも(明治42年)
君を得しよろこびなれどあたらしくおのれを得たる驚きぞする(明治44年)
わが子ともまだおぼえねどしほれたる花のここちにいたはりて抱く(大正4年)
何よりもわが子のむつき乾けるがうれしき身なり春の日あたり(大正4年)
秋山佐和子さん選の「三ヶ島葭子の百首」から前半生を代表する5首を選びました。「あたらしき」は埼玉県女子師範学校二年の時の歌です。この頃ようやく女性の高等教育が軌道に乗り始めました。学ぶ歓びを詠んだ歌です。「あめつち」は短歌に対する情熱をストレートに表現した歌。「君を得し」は胸躍る夫・倉片寛一との恋愛を詠んでいます。「わが子とも」「何よりも」には娘・みなみを得た歓びが表現されています。
いずれの歌も生活実感に即した素直な作品です。また短かったですが葭子の前半生がそれなりに充実した幸せなものであったことがわかります。後半生になるとそれが曇り始めるわけです。
病めば子のやしなひがたく人のゐる湯ぶねの中に涙おとしぬ(大正5年)
必ずいつか我の心にかへりこん君と思ひつ涙とまらず(大正10年)
生けるものを死にたるものとあきらむるわれ心の堪へられなくに(大正10年)
たまきはるいのちひとつを守りなん今宵焼けなば焼けよ我が家(大正12年)
あといへばかとしもひびく悲しかるおのが言葉に口つぐみけり(大正14年)
なにかたのしき思ひわきをりこの病の癒ゆる望みはなしと思ふに(大正15・昭和2年)
「病めば子の」は結核で引き離されてしまった娘を思った歌。「必ずいつか」「生けるものを」には心が離れてしまった夫に対するアンビバレントな感情が表現されています。いつかまた夫の愛が戻ってくると信じそれがはかなくなると「生けるものを死にたるものとあきらむる」絶望が表現されるようになります。「たまきはる」は葭子の絶唱です。関東大震災で葭子と夫と愛人は難を逃れましたが東京では大火災が起こりました。こんな家など焼けるなら焼けてしまえと詠っています。「あといへば」は軽度の脳出血で右半身不随となってしまった後の歌。「あ」と発音しようとしても「か」になるので口をつぐんでしまうという大意です。「なにかたのしき」は最晩年の病中詠。病が癒える望みはないのにそれでも楽しい思いが湧いて出るという歌です。
後半生の歌も生活上の実感に裏付けられた秀歌が多いですね。葭子の歌が実人生と切り離せないのは仕方のないことだと思います。それが葭子の短歌の大きな魅力でもあります。しかしわずかに実人生から浮き上がった観念的な歌もあります。
みづからを偽るよりも苦しかりありのままなる我を語るは(大正2年)
われはいまだ道の半ばと思ふとき思ふことみなはかなくなりぬ(大正4年)
子のためにただ子のためにある母と知らば子もまた寂しかるらん(大正4年)
今にして人に甘ゆる心あり永久に救はれがたきわれかも(大正15・昭和2年)
これらは葭子の内面を直裁に詠んだ歌です。「みづからを」や「われはいまだ」には作家の厳しい内面が表現されています。「子のために」は秀歌ですね。ひたすら子どものために尽くす母親では子どもも寂しがるだろうと詠っています。
底の石につかへてありし笹の枝わが川越せば流れ出しにけり(大正6年)
夕川のつめたき水に洗ひたる小蕪ましろに積みあげてあり(大正6年)
二階ある家にうつりて久しぶり夕べの雲の動くを見たり(大正8年)
川越せば涼しかりけりくるぶしを流るる水に合歓木の花散る(大正9年)
道のべに鳴けるこほろぎ行き過ぐる後ろになれりややかすかに(大正9年)
わが家のまうへをとほる飛行船大いなるもの空をゆくかも(大正12年)
しみじみと障子うす暗き窓の外音立てて雨の降りいでにけり(大正15・昭和2年)
「アララギ」時代から写生短歌が増えます。生活詠が目立ちますが葭子自身はこういった歌をメインの表現に据えていたのではないかと思います。「わが家のまうへをとほる飛行船」は傑作です。「大いなるもの」は単純に「飛行船」ではなく葭子の高い観念的希求であると読んでいいと思います。志半ばで途絶えましたが大志を抱いた方だった。
葭子の歌には「明星」的抒情や「スバル」的浪漫主義の影響が強く表れています。らいてう「青鞜」的な女性の自立(矜持)を詠った歌もあります。茂吉「アララギ」派の影響も色濃い。もちろん歌は端正でプロの手になるものですが同時代の短歌の影響を一身に受けた歌人でした。
ただ晶子に比べると「君を得しよろこびなれどあたらしくおのれを得たる驚きぞする」といった恋愛歌は今ひとつ吹っ切れた表現になっていません。「たまきはるいのちひとつを守りなん今宵焼けなば焼けよ我が家」は苦悩が頂点に達した絶唱ですがそれでも感情を抑えている印象がある。しかしそれが三ヶ島短歌の特徴だと思います。
明治後半から大正時代にかけての日本は比較的平和でした。明治初期の混乱が収まり日清・日露戦争はありましたが近代に入って最初の文化隆盛期でした。啄木や牧水や白秋ら昭和・平成に繋がる歌人たちを輩出した時代です。
彼らに比べると葭子の作品は穏やかでそれほど目立ちません。一瞬で読者を惹きつける飛び道具のような斬新さを備えていない。しかしこの時代の短歌のレベルの高さを示しています。時代的抑圧によって表現を抑え込まれた気配が濃厚ですがその強い抑圧を真正面から引き受けて端正な歌を詠み残した。良い悪いではなく同時代の影響を受け女性が置かれた同時代の抑圧を引き受け耐えに耐えて溢れ出る感情を表現した作家なのではないでしょうか。彼女のような作家の仕事の上に後年の斎藤史のような作家の仕事があり河野裕子や俵万智の仕事があるように思います。
高嶋秋穂
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