KADOKAWAから『短歌を楽しむ基礎知識』を編著なさった上野誠さんを中心に神作研一さんと谷知子さんの二人の国文学者が参加された鼎談が掲載されています。現代のネット短歌を中心に古典短歌との共通点を探る鼎談です。
上野 (前略)まず本書の冒頭に書かせていただいているネット短歌についてです。SNS上で短歌が話題沸騰している昨今の状況を自分なりに調査しまして、岡本真帆さんの第一歌集『水上バス浅草行き』の〈ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし〉という一首に辿り着きました。私たち研究者からしますと、この歌について二つの見方ができると思いました。一つ目は「若い人らしい新しい感覚」の短歌であるというもの。もう一つは、「いや中世にもこういう実験的な和歌はある」「近世にもこういう実験的な技法はあった」といったような、「新しいように見えて実は古くからある」という見方です。(後略)
『短歌を楽しむ基礎知識』刊行記念国文学者鼎談「現代短歌はどのような時代か」上野誠/神作研一/谷知子
上野さんを受けて谷さんが「この歌はネット上ですごく話題になりましたね。岡本さんの上の句「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし」に、いろんな人が思い思いに下の句を付けて、X(旧twitter)にポスト、一種の大喜利状態になっていました。例えば、「トイレットペーパーペン立てにしてるし」とか、「パスタと一緒にソース茹でるし」とか」と発言しておられます。谷さんは平安時代の『大和物語』にも帝が下の句だけを詠んで宮廷人が競って上の句を付けた故事があったと紹介しておられます。
これについては上野さんが「和歌は新しいものを作るのではなく、古いものを改造しながら作っていくというのが基本でしたからね。つまりそれがインターネット空間に移っただけで、流れとしては同じということですかね」と発言しておられる通りだと思います。ただそれがネット(SNS)を越えて古典短歌や結社などへの興味にまで広がるのかどうかは疑問です。有名になりたいという欲望はどの歌人にもあると思いますが。
文学という表現がプレテキストの延長線上にあるのはいつの時代も同じです。それは日本でも諸外国でも変わらない。『万葉集』や『イーリアス』は古典中の古典ですがそれらが成立する以前に膨大なプレテキスト層が存在していたのは間違いありません。現代でもそれは同じですが参照するプレテキストが俵万智さんと穂村弘さんの口語短歌時代でほぼ止まっている。それ以前にまでプレテキストを溯る歌人たちはSNS短歌とは別のセリーに属している気配です。
つまりプレテキストを参照するにしても断絶がある。その理由の一つは鼎談でも触れられていますが自己顕示欲がかつてないほど高まっておりかつそれを表現する媒体がSNSによって簡単になったからでしょうね。短歌は基本わたしはこう思うこう感じるの自我意識表現ですが短歌の方が俳句より遙かに簡単に自己を表現できる。プレテキストの言葉の置き換えによる大喜利状態が生じる由縁です。
二つ目の理由は明治昭和初期まで続いた絶唱系短歌が長寿で平穏な社会にはそぐわなくなってきたからでしょう。もちろん口語短歌でも萩原慎一郎さんや笹井宏之さんら早世した歌人の一種の絶唱系短歌は人気です。しかしほとんどの歌人の生の時間は現世の絶対的事件とは無縁に淡々と過ぎてゆく。せいぜい恋愛や受験が大事件。その微かな変化を的確に捉えるのが口語短歌やニューウェーブ短歌の主流になっています。本歌取りのように見えて一瞬の生の機微を捉える短歌に技法の知識はそれほど必要ありません。反射神経の方が重要。二次創作の意識の方が強いかな。それでも優れた表現は生まれて来るわけですが。
上野 (前略)そこで話題を変えましょう。短歌界に限った話ではないんですが、研究と創作は今大きく発展している一方で、危機的な状況にあるのは評論だと思っているんです。例えば、我々の世代だと、入試には必ず小林秀雄の文章は出てきたし、ちょっと勉強しようということだったら山本健吉、亀井勝一郎は読まなきゃとなっていた。国文学業界におられるお二人から見て、評論がここ三十年で駄目になった、低調な理由に、何か思いあたる節はありますか。
同
研究が格段に進んでいるのは上野さんがおっしゃっている通りです。ネットの副産物ですね。今もの凄い勢いで古典を含む過去テキストのデジタル化が進んでいます。デジタルデータで簡単に過去テキストを参照できるようになっている。高い記憶力は必須ではなくなりタグデータさえ覚えていればそれを元に膨大なテキストを並列的に比較できるのです。もちろん研究者の意図(思い込み)に従って過去テキストが精査されぬまま都合よく裏付けとして利用されてしまうという弊害も起こります。しかしデータ化によって研究はかつてないレベルにまで引き上げられつつあります。
一方で創作と批評の関係は歪です。創作は盛んですが批評は低調。短歌誌を読んでいても伝統短歌系の歌人は古典を参照した評論を書き口語短歌系の歌人はいささか強引に同時代の作品を援護射撃的に高く評価している傾向があります。批評でもプレテキストの参照に断絶があります。
これについては今しばらく断絶状態が続くでしょうね。短歌は非常に面白いというか興味深い文学の器です。すべての日本文学の母胎だからです。短歌だけ見ていればSNS短歌全盛に見えますがそれは自己顕示欲―自己表現欲全盛の時代だとも言えます。今現在を掬う口語短歌・ニューウェーブ短歌を書く歌人もすぐに年を取ります。自ずと断絶を乗り越えようとする歌人が出てくるはずです。もしくは短歌を足がかりにして小説や詩など別の表現に赴く歌人も現れると思います。その意味では今は二十一世紀的な文学が生まれる以前の混沌とした〝若い文学の時代〟だと言えるかもしれません。
高嶋秋穂
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