日本で東京一極集中が顕著になったのは一九七〇年代の高度経済成長期頃からである。江戸時代は幕末に至るまで文化は西高東低だった。化政期になって浮世絵や馬琴らの黄表紙が江戸で大流行したが、まあ当時のサブカルですな。もちろん現代のマンガ・アニメがサブカルと呼ばれながら実質的に日本のメインカルチャーであるように、江戸の浮世絵や黄表紙も現代の視点ではメインカルチャーだったと言ってもいいわけですが。
ただ江戸初期に文化をもたらしたのは西の人、芭蕉であり尾形光琳だった。文筆・絵画の世界ではそれは幕末まで続いた。最近人気の伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪は京の人である。その大元は円山応挙殿。頼山陽を頂点とする漢詩人系の文人・思想家も京住まいだった。京は言うまでもなくお上の居ます都で、幕府の圧力がかかりにくかったのである。幕末最大の詩人、菅茶山は広島(福山藩)。江戸では大窪詩仏や菊池五山らが活躍したが詩人としては二線級。ただし詩仏は文学ジャーナリズムを始めた人であり、詩人の番付表がスキャンダルになった。まあ江戸文化らしい。たしか五山の末裔が文藝春秋社創設者の菊池寛大先生ではなかったかな。
戦後になって東京に人や物だけでなく文化も集中するようになったわけだ。それとともに文学者も東京住みが多くなった。ただし例外は歌人、俳人、特に俳人が目立つかな。江戸時代から、というより芭蕉が行脚して俳句を広めてから、日本各地に結社というか座が林立した。それが現在まで続いている。
考えてみればこれは面白いことで、まあ乱暴なことを言えば俳人は中央=東京に住む必然性がないわけだ。今は情報化時代だから、ネットに繋がるデバイスさえあれば情報はいくらでも入手できる。しかし美術展にしろ演劇、コンサートにしろ、簡単に足を運んで見ることができる利便性は東京にかなわない。地方都市に住んでいればそれは身に染みてわかるはずだ。逆に言えば俳人はそういった生の情報をあまり必要としていない、ということになろうか。これも乱暴な言い方だがそう的外れでもあるまい。
俳句というのは本当に魔の表現である。プロと呼ばれるようになる俳人の多くが、たいていは思春期までに俳句に魅了されている。五七五の表現の虜になった人たちだと言っていい。思春期までに俳句に魅了されなかった文学者はどうなるのか。ま、たいていは俳句は短すぎる、短歌の長さでは不十分ということで、自由詩や小説、演劇、評論などに手を染めてゆく。その意味で俳人は選ばれた人たちであり呪われた人たちでもある。
安井浩司は盟友の河原枇杷男について、枇杷男はスゴイ男なのだが、俳人である限り、たかが河原枇杷男にしかなれないのだ、という意味のことを書き残している。もちろんそれは安井浩司についても言えることである。
俳句はもの凄く簡単だ。巧拙を問わなければ誰でも俳句を書ける。詠めと言われて、なんとなく俳句が詠めてしまうのが日本人だと言えるほどだ。そういう意味で俳句の敷居は恐ろしく低い。短歌、自由詩、小説でまともな作品を書けと言われれば、ほとんどの人がうんうん唸ることになる。うんうん唸ってもたいていまともな作品一つ書けない。子規は門弟に短歌を書かせて呆れ果てた。しかし俳句では初心者がポッと詠んだ句がけっこう良かったりする。それを誉められてドツボにハマる俳人も多い。しかしそれは僥倖に過ぎない。
俳句の敷居は低いが、俳句でまともな仕事を為そうとするのはもの凄く難しい。日本文学で最も困難で難しい文学ジャンルは俳句だと断言できる。子規を始めとして俳人で優秀な文学者は数多くいる。しかし俳句はどこまで行っても日本文学の刺身のツマだ。俳人の皆さんが大好きな虚子がそう断言している。優秀な俳人であればあるほどそれに苛立つ。しょうもない大衆小説家ほどにも有名になれず金ももうからない。苛立ちを通り超すと、俳句で画期的な仕事を残すことがいかに難しいかという壁にぶち当たる。誰だって最初は芭蕉や蕪村、子規らに比肩する仕事を残したいと思うわけですからね。で、どうなるのか。俳句が世界になり、俳句以外の世界が見えなくなる。いい面もあれば悪い面もある。いい面は、そういった俳人しか俳句でまともな仕事を残せない。悪い面は俳壇が世界になって、そこであくせくするようになる。
で、たいていの俳人はどこかで諦める。俳句に圧をかけなくなる。そうなると花鳥風月的な写生の魅力はもう本当に魔だ。俳句の世界に逃げ道は多い。これも簡単に言えば、俳句の勘所は長い間俳句に携われば自ずと身につく。理論化できなくても指導はできる。たいていの結社がそれで運営されている。これも乱暴な言い方だが、年季の入った俳人に学べば、ほとんどの人がある程度まで俳句の勘所を体得することができる。問題はその先で、芭蕉を頂点とする俳人たちの仕事に肉薄しようとすれば地獄を見ることになる。一生かけてもダメかもしれない。たいていすぐそれに気づく。日本文学の刺身のツマと知りながら努力を重ねるより、狭くても俳壇で先生と呼ばれチヤホヤされた方が気持ちがいいに決まっている。
身も蓋もないことを書いたが、俳句の世界は身も蓋もないところがあるのだから仕方がない。要するに俳句のトラップはハッキリしている。俳壇はあまり居心地のいい場所ではない。俳壇を構成する多くの俳人が、首まで俳壇にどっぷり浸かりながら俳壇を嫌悪しているんじゃないのかな。なんらかの形で俳句トラップに陥らないようにする方がよろしいのではありませんか、ということである。
令和の時代でも、砂町は妙に懐かしい町だ。北砂在住の僕は、週に五日は用も無いのに商店街をぶらついている。人の生活が生々しく歩いているだけで充分面白い。(中略)
初めて来る人は都営新宿線の大島か西大島で降りたら良い。芭蕉も句を詠んだ小名木川に架かる橋を渡り、砂町商店街へ。石田波郷記念館(なんと無料)で波郷の肖像画に挨拶をして、遺品のカメラや手書きメモ、赤城さかえから贈られた杖等から魂を感じて欲しい。そのまますぐには帰らずに、次に商店街を抜け波郷旧居跡を目指して欲しい。ここは今は個人の建物なので静かに波郷旧居の説明書きの立札だけを読ませてもらい、俳句はエッセイにたびたび登場する左右の寺と神社を訪ねるのもお忘れ無く。砂町入門はだいだいそんなところか。
西村麒麟「石田波郷が暮らした町 砂町(東京)」
西村麒麟さんのエッセイは読ませる。俳句一辺倒なのだが文学臭がない。サラリとしている。こういった抜け方もアリだと思う。
岡野隆
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