「大特集 消えゆく梅雨?~環境問題と俳句」が組まれています。言うまでもなく俳句は五七五に季語が定型。99パーセントの俳句がそれを守っている。しかし世界的な気候変動によって季節感が薄れつつある。「消えゆく梅雨?」はそんな危機感をあらわしているわけだが、そこに「環境問題」がくっつくと問題はやたらと大きくなってしまう。
俳人が環境問題に具体的提言を行えるはずもない。俳人としでではなく現代人の一人として「心配ですねぇ」と言うのがせいぜいだろう。ただ俳人としては現実の季節と俳句の季語が合わなくなるのは困る。要するに旧暦と新暦でどう季語の整合性を取るのか、暦の季節と出回っている作物が違うのをどうするのかといった馴染み深い問題提起の変化球版である。それほど新鮮味はないが、こういうお題の時こそ執筆者の腕の見せ所ですね。
季語を成立させる大枠は、「春」「夏」「秋」「冬」の四つです。
この四つが四季の基本、あるいは核です。(中略)
この四季の文化は衣食住の多方面に広がり、浸透し、俳句の季語にもなりました。余談を言いますが、平安時代以来、江戸時代も明治時代も四季は都市的文化ですが、近代のある時期、ボクは昭和だと思っていますが、俳句の季語は農村的になりました。日本列島が都市化し、農村から都市へ人口が移動した時期に、あたかも郷愁のように季語が農村化したのです。(中略)
ここまで、大事なことを言い忘れていることに気づきました。日本列島は変化する列島だということです。地震、津波などはこの列島いつきもの、風も雨も昔から人々の暮らしに変化を与えてきました。現在のさまざまな環境問題もその変化の中で考えたい。季語を解き放すのも一つの変化という現象です。
坪内稔典 「論考 俳人と環境問題 季語の縛りを解く」
坪内さんの評論は今ひとつ論旨がハッキリしないが、昭和時代、特に高度経済成期に東京などの大都市への大量人口流入によって「あたかも郷愁のように季語が農村化した」というのはなんとなく理解できる。俳句人口の急激な増加に伴う簡便な初心者指導の必要性から、現実と整合性が取れていなくても季語が絶対化されていったのだと言ってもいい。各種歳時記が盛んに刊行された時期とも一致する。
で、坪内さんの主張の要点は「農村的季語から都市的季語へと季語は転換の時を迎えているのではないか」というものだ。これについては別稿で具体的に論じられるのだろう。ただ「季語を解き放す」と言ってもそれは「(旧来の歳時記から)季語を解き放す」ということである。「都市的季語」へ歳時記の季語を変えるということだ。
環境問題というお題を引き受けながらキチンと季語について論じておられるのはさすがだが江戸時代から季語は様々に変遷している。大幅に増えてもいる。歳時記を都市的季語に変えてもそれは無限に続く変化であり季語自体の問題には迫れないのではあるまいか。むしろどんなに現実と合わなくても俳句には季語が絶対に必要であり、それはなぜかを考えた方が問題の本質に近づけると思う。
俳人が現実と歳時記的な季語の齟齬をやたらと気にするのは俳句が現実世界の写生でなければならないと考えているからである。評釈の問題でもある。評釈では俳句を俳人がいつ、どこで、どのような状況で詠んだのかを事細かに説明する。当然、俳人の目に写ったままの風物が詠まれていなければならない。しかし実際は違う。ほとんどの俳人がほかの言葉といっしょに俳句に季語を組み合わせている。これは本質的に俳句発生時から変わらない。
現実の反映と言うなら季語不要の伝統短歌の方が遙かに現実に即している。俳句はむしろ記号的取り合わせだ。にも関わらず俳句が短歌より現実との整合性を気にするのは現実風物(季語)の上位審級にメタ季語が存在しているからである。本質的にはそれが俳句を統御している。歳時記の季語は記号に過ぎない。それがメタ季語と有機的に結びついて初めて俳句表現にリアリティが生まれる。
現実と季語のズレはさしたる問題ではない。歳時記的季語がメタ季語と結びつかず記号として浮いてしまうのが問題なのだ。なにをどうやっても俳句は季語から逃れられない。歳時記的季語(記号)がメタ季語と一体化していれば誰も現実と季語のズレを問題にしない。
結社を持つことは、大勢の人と群れることではなく、今までにも増して孤に徹することだろう。
「みんなの中で最も努力しているのは僕だよ」。今も(原田喬)先生の声が聞こえてくるのである。
特集 俳人よ一匹狼となれ 折井紀衣「赤い大地」
今号では「俳人よ一匹狼となれ」という特集も組まれている。これもまあムチャぶりの特集ですなぁ。一匹狼は孤に徹した者のことではない。文字通り群れから離れた者、離れざるを得なかった者のことである。にも関わらず孤独に生きていける強い力を持っている。なぜ群れから離れたのか、離れざるを得なかったのかと言えば群れに絶望し、群れの仲間から異和として放逐されたからである。今の俳句と俳壇に絶望した俳人が自ずと一匹狼になるということだ。
一匹狼はカッコよさげだ。西部劇のガンマンのような甘いロマンティシズムが漂う。しかし好んで一匹狼になる者なんていない。正しいか正しくないかは別として、強い信念を持って既存の俳句とは異なる俳句を追い求め、俳壇から放逐された者が否応なく一匹狼になる。それは辛い。当然だが結社云々ではなくどんな形であれ仲間を持つ方が精神的に楽だ。本物の一匹狼は「俳人よ一匹狼となれ」という特集タイトルを見て黙って微笑するだけでしょうな。
岡野隆
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