戦争俳句の特集は定期的に組まれますな。第二次世界大戦というより太平洋戦争中の日本は狂信的というより狂気の挙国一致体制で、東京大空襲で首都東京が焼け野原になって広島、長崎に原爆が投下され無惨な沖縄地上決戦の結果を把握していても、アメリカ中心の連合軍に降伏しなかった。誰がどう考えても異常だ。
国民のほとんどは本土決戦で一億総玉砕を覚悟していたわけで、そうならなかった最大の理由はソ連の満州侵攻である。当時の中国戦線は国民党、共産党、日本軍の三すくみの膠着状態にあり、陸軍最精鋭の関東軍は兵力を温存していた。日本政府はアメリカ軍が本土上陸したら関東軍を呼び戻して本土決戦するつもりだったのである。関東軍総崩れで日本政府の本土決戦プランは不可能になった。
アメリカは東京を焼け野原にしたが日本政府首脳を殺害しなかった。温情ではなくほんの数ヶ月前のソ連赤軍によるヒトラー殺害とその後のソ連の動向から、無政府状態になれば日本がソ連領になることを恐れたからである。政府を残さなければ講和はできない。戦後も、これもほんの少し前に始まったニュンベルク裁判が極東国際軍事裁判に大きな影響を与えた。このアメリカによる日本温存で共産党ソ連に対抗するプランは終戦直後から現在に至るまで続いている。当時の複雑な世界情勢が絡み合って戦後日本がある。
では敗戦後の日本人の反応はというと、大方が「あれはなんだったのだろう」といった茫然自失状態だった。押し殺していた厭戦気分が一挙に溢れ出したのだとは言えるが、敗戦の現実を突き付けられた瞬間に、「どうしてこんな愚かな戦争をしたんだろう」という気分が蔓延した。これも現在まで続いている。太平洋戦争を美化する人はほとんどいないと言っていい。ただ太平洋戦争が総括されているかというと、これもなかなか難しい。
戦中に行われた有名な座談会に『近代の超克』がある。河上徹太郎司会で小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、中村光夫ら名だたる文学者が参加した。座談会の目的は明治維新以降、日本に決定的な影響を与えてきた西洋文化の総括と超克である。しかし今読んでもなにがどう総括され超克されているのか判然としない。戦後、竹内好によって厳しく批判されたがそれは竹内の主張であってこの座談会の本質を衝いているとは思えない。要するに『近代の超克』というタイトルが一人歩きしている。そしてこの現象もまた正しいように思う。
一八六九年の明治維新から太平洋戦争敗戦の一九四五年までは七十六年である。七十六年は長いがチョンマゲ姿の日本人が無理に無理を重ねて西洋列強に追い付け追い越せと苦闘したのがこの年月だった。大川周明は大東亜共栄圏構想で知られ極東裁判で民間人として唯一A級戦犯として起訴されたが、精神疾患と診断されただ一人有罪にならなかった。大東亜共栄圏構想は、元々はインドから東南アジアに至る西洋列強の植民地を、日本が中心になって開放しようという構想だった。そのため日本軍の実態を知らない中東やインドの革命闘士が戦中に来日している。もちろん大川は戦争支持だったが、彼の大東亜共栄圏構想は日本の聖戦の大義名分として利用された面がある。大川は五・一五事件で収監されたが『獄中日記』で盛んに明治維新の志士たちに思いを馳せている。二・二六事件の将校たちも同じ。彼らにとって明治維新はつい昨日のことだった。七十六年という月日はそのくらい短い。
太平洋戦争の原因は様々に分析できるが、明治維新以降の無理を重ねた欧化主義の澱が一気に吹き出た面がある。つまり過去のぶ厚い積み重なりが西洋コンプレックスとないまぜの欧米美化を生み、経済的に追いつめられた頃から国粋主義に変わっていった。その意味で戦争などのメルクマールとなる事件の本質は過去にある。事件が起こってから現状でそれを分析するのでは不十分。今現在の一歩一歩に来たるべき事件の萌芽が含まれている。
文学に話しを戻せば、文学者の戦争への対応はさらに複雑になる。小林秀雄は祖国が戦争状態にある時に、それを支持しないなどあり得ない、という意味のことを言った。開き直りと捉えることもできるが、戦争になれば親兄弟、友人らが戦士となって召集される。負ければいいというのは彼らの戦死と紙一重だ。また戦争になれば国家権力の統制が恐ろしいほど強くなる。それに抵抗出来た文学者はほんの一握りだった。またそれが当時の夢の体制であった社会主義(共産主義)と結びつくと、判断停止状態に陥る人が多いのも事実。社会主義国家になるくらいならアメリカに負ける方がいいに決まっている。
戦後の身の振り方も様々。戦前戦中の傷から政府を激しく批判しながら、国家が与えてくれる賞は喜んで受ける文学者もいる。飯島耕一や谷川俊太郎のように、国家からの賞をことごとく拒む文学者もいる。どちらかと言わなくても、歌人俳人よりも詩人の方が意地っ張りだ。しかしどちらが正しいとはにわかには言えない。それぞれの文学者の過去の積み重ねを辿るしかない。
さらに今号のお題である戦争俳句に焦点を絞れば、基本、写生重視の俳壇でそれが定期的に取り上げられるのは、戦中に反戦的な声を上げた文学の代表が俳句だからだろう。それを俳句は誇っていい。ただし戦争俳句が新興俳句以降の自我意識表現に目覚めた俳人たちの熱気によって生まれたことも認識した方がいい。新興俳句の自我意識表現は実に短い期間でピークに達した。それ以降、たとえば戦後に数多く詠まれ続けている反戦、厭戦俳句とは別物である。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
戦争俳句は白泉のこの一句に集約されると言うことができる。なぜか。不気味だからである。反戦の評釈は可能だが、これは基本、写生句だと言うことができる。気がついたら戦争が廊下の奥に立っていた。それだけを詠んだ句だと受けとった方がいい。
新興俳句はそれまで花鳥風月一辺倒で、せいぜい秋櫻子の主観俳句止まりだった表現に、俳人の自我意識表現を乗せる道を開いた。俳句は明治維新以降、日本文学の大勢から取り残されていた自我意識表現をようやく手中にした。新鮮な表現であり驚きだったろうが、それ自体はさしたる問題ではない。乱暴に言えば俳句の自我意識表現など、時間が経てば花鳥風月的な写生風土に吸収され溶解してしまうに決まっている。ただほんの数人の俳人がその枠組みを乗り越えた。白泉がその白眉である。
白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」が優れているのは、この句が当時の社会、というより世界に一対一で対応しているからである。意味やイメージを評釈しても本質には届かない句である。最も優れた言語表現は意味やイメージに還元できない。世界と一対一で対応する。還元不能な〈言語像〉となっている表現である。白泉の句はモノのように〈像〉として立っている。
今号では川名大さんが「戦争俳句の要諦」を書いておられる。川名さんは言うまでもなく新興俳句から戦争俳句(昭和俳句)について、最も優れた批評をお書きになった方である。高柳重信の「俳句評論」同人だったが、この系統の俳人・批評家の中で、ほとんど唯一、商業句誌で活躍しておられる批評家でもある。
川名さんが新興俳句にこだわり、また重信「俳句評論」同人であったのは、俳句には〈像〉としての表現が必須だとお考えになっているからだろう。相対化して見れば、写生と花鳥風月の大流の中で、ハッキリ〈像〉としての俳句を目指したのは新興俳句と重信前衛俳句だけだったと言っていい。それを大方の前衛俳人たちのように狭いセクショナリズムに囲い込んで相も変わらぬ師系で伝統化せず、過去の総括によって俳句に絶対に必要な要素だと主張しておられるから川名さんの評論は優れている。俳句が文学であるのはそれが世界に対応した〈言語像〉となっている時である。それ以外の俳句は習い事俳句の延長だと片付けて良い。
写生俳句の大半は意味やイメージから解釈(評釈)できる。しかし最も優れた俳句はなにをどうやっても評釈できない。〈像〉から意味を引き出すことができるが〈像〉そのものは不動だ。大方の俳句とは表現の審級が違う。文学表現に即せば戦争俳句を反戦・厭戦のイデオロギーで捉えても意味がない。
岡野隆
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