たまたまだろうが水原秋櫻子に関する評論二本が掲載されている。一つは井上泰至さんの連載「俳句界の仕組みを作った男たち」第四回「水原秋櫻子」である。秋櫻子は俳句史的には高濱虚子「ホトトギス」に初めて反旗を翻し、結社誌「馬酔木」を創刊した俳人として知られる。
大正時代末から昭和にかけて「ホトトギス」は全盛時代を迎えた。商業句誌は存在せず「ホトトギス」が不動の〝俳壇〟だった。大正・昭和を代表する俳人のほとんどが「ホトトギス」「雑詠」欄から現れている。
「雑詠」欄は虚子撰の投句欄だが季題を設けておらず、俳人たちは好きな季題で投句できた。その自由さが受けて多くの句が集まった。優秀作は巻頭に掲載されたが「雑詠」欄巻頭を飾るのは一生に一度あるかどうかだと言われるほどの栄誉だった。また俳人たちは「ホトトギス」通信欄を目を皿のようにして読んでいた。何気ない俳人交友録だが虚子の一挙手一投足が注目の的だった。ゴシップ記事も含めて「ホトトギス」が俳壇だった。
俳句では俳壇史と作品史を切り離して考えるのが難しい。ほぼ不可能だと言っていい。なぜなら俳句は究極的には多士済々の俳人たちを一本に束ねる伝統芸術(芸能)だからである。乱暴なことを言えば全ての俳人は俳句に滅私奉公する赤子である。複雑に師系や流派(結社誌、同人誌)に枝分かれしているが時間が経てば俳人たちの作品は必ず一冊の歳時記に収斂する。言うまでもなく歳時記は春夏秋冬を軸に秀句・名句を集めたアンソロジー集である。その主体は必然的に〝俳句〟であり〝俳人〟ではない。これは俳句の根幹に関わる最大級の問題である。結果的に、と言うべきだろうがこの問題に初めて抵触したのが秋櫻子である。
葛飾や桃の籬も水田べり
梨咲くと葛飾の野はとの曇り
馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ
秋櫻子『葛飾』は「ホトトギス」門時代に刊行されたが実質的に虚子写生俳句(花鳥諷詠俳句)に反旗を翻した記念碑的句集である。秋櫻子が反発したのは虚子の写生墨守の姿勢だった。井上泰至さんは秋櫻子の立場を「「個」を発揮する場」と捉え「句集とは、作家の「個」を問うのか、「日記」としての自然の運行の一部、あるいはそれとの交感の記録であるのか? これは俳句に対する「哲学」の違いであって、「個」優先が自明の現代社会にあっては、秋櫻子の方法の方が「自由」に感じられ、そうした立場からは、虚子の世界観には「暗さ」「悲観」「牢獄」をすら感じてしまうことが多い」と論じておられる。
杓子定規に言えば秋櫻子は虚子「写生俳句」に対して「主観俳句」を提唱したということになる。では句集『葛飾』のどこに主観が表現されているのかといえば「桃の籬」や「金堂の扉」といった短歌調の言葉の選択や「との曇り」といった古語の援用においてである。決していわゆる個の強い主観が表現されているわけではない。句の完成度は別として、現代の視線からは虚子写生俳句にほんの少しだけ主観を附加した句に見えるだろう。
実際虚子は『葛飾』を読んで「たったあれだけのものかと思ひました」と冷たい評を残している。秋櫻子もまた著書『高濱虚子』で写生は俳句の絶対的基盤だが、いつまでも虚子のように写生のみにこだわるのはどうかと思う、だから自分は虚子が決して踏み出すことのない輝かしい主観俳句を提唱するのだ、という意味のことを書いている。反旗を翻したとはいえ秋櫻子は虚子の手の平の上にいた。虚子が秋櫻子主観句を見切ったのは当然だった。
では俳句は虚子が言うように五七五に季語の定型を守り、写生を基本とすることから一歩も逃れられないのだろうか。秋櫻子は『葛飾』でいわば作家性を全面に打ち出した句集を上梓したつもりだった。虚子が「花鳥諷詠論」で述べたように明治大正時代にかけて短歌も小説も自我意識文学一色に染まっており、日本文学は現在に至るまで作家の個性を最大限に評価する自我意識文学である。明治四十年代には漱石らによって小説家では自我意識文学の基盤が確立されていたので俳句は三十年ほど遅れてようやく自我意識表現を取り入れたことになる。この秋櫻子のいわば現代文学へのアップデートは功を奏しなかったのだろうか。
俳句という表現の残酷に即せば秋櫻子の試みは功を奏しなかったと言える。俳句では俳壇史と作品史を切り離せないと書いたが虚子「ホトトギス」はもちろん秋櫻子「馬酔木」もまたその子孫が主宰して現在も刊行されている。その一事を見ても秋櫻子主観俳句(俳人の個性重視)が極めて不十分なものだったことがわかる。俳人の個性を重視するなら結社世襲はあり得ない。秋櫻子以後に「ホトトギス」批判から生まれた多くの俳人・俳句流派についても同様のことが指摘できる。新しい試みで頭角を現した俳人のほとんどが気がつくと結社の宗匠になっているのである。
さて、句集に話を引き取れば、今日世の中に溢れる句集は、皆ほとんど秋櫻子の系列に整理されるであろう。三年から五年の間に制作された句集は三百から四百。句の「個性」を象徴するタイトルや編集を行う。これが句集の通り相場であろう。
最近出された句集で、そこを抜け出そうという試みとして、蛇笏賞をとった小川軽舟さんの『無辺』と、詩歌文学館賞始め三賞を独占した星野高士さんの『混沌』が、タイトルからしても、虚子的なるものを目指していて、注目を集めた。
秋櫻子から始まった句集の標準というものを、見直す時期に差し掛かっているのかも知れない。
井上泰至「俳句界の仕組みを作った男たち―水原秋櫻子」
井上さんは「今日世の中に溢れる句集は、皆ほとんど秋櫻子の系列に整理されるであろう」と書いておられるが、それは虚子的有季写生俳句にほんのわずかな主観(個性)を附加した句集のことである。いわば写生的主観俳句である。この大局的に見れば虚子的俳句王道を大きく逸脱するとそれは前衛俳句等々と呼ばれ俳壇での評価の俎板そのものから滑り落ちることになる。また写生的主観俳句を実践すれば「三年から五年の間に制作された句集は三百から四百。句の「個性」を象徴するタイトルや編集を行う。これが句集の通り相場」になるのも確かなことである。
井上さんは「秋櫻子から始まった句集の標準というものを、見直す時期に差し掛かっているのかも知れない」で論を終えておられる。虚子は無造作に『五百句』『五百五十句』『六百句』というタイトルで句集をまとめた。生涯に渡って膨大な句を詠んだ。井上さんの秋櫻子写生的主観俳句を見直すべきという提言は虚子有季写生俳句への回帰の勧めと言っていいだろう。
俳句が何をどうやっても虚子的有季写生俳句、せいぜい秋櫻子的写生的主観俳句に戻って来てしまうのは間違いないことである。ただ俳壇史ではなく作品史にウエイトを置けば、現代文学としての俳句が直面しなければならないのは主観-自我意識表現である。虚子-秋櫻子を絶対とすれば俳句は凪いだ海のような表現となり同時代に食い込む現代性から大きく遠ざかってしまう。俳句は新興俳句、前衛俳句が辿った自我意識表現の限界をさらに更新する表現地平を見出せないので凪いだ海に一律化されているとも言える。井上さんの論に概ね賛成だが虚子、秋櫻子を軸にポスト主観-自我意識俳句を考える必要はないと思う。
岡野隆
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