鷗外さんは生誕160年・没後100年のようで「没後100年 森鷗外と俳句」特集が組まれている。句誌なんだから俳句に注目するのは当然なんだけど、いつものことながらどうも手つきが怪しい。言っちゃ悪いが俳壇にはマジ引きするほど威張り散らしている先生方が多い。威張ってなくても会合で石を投げれば先生に当たるほど先生だらけだ。
なんで俳壇に先生が多いのかと言えば俳句は習い事お遊び芸だから。お茶やお花の世界となんら変わらない。外から見るとそうなんだけど、俳壇内部に入るとそーでもなくなるから話がややこしい。先生方もお弟子さんたちも頭っから俳句は文学だと信じ込んでいる。この奇妙な誤解のために先生方が威張り散らすという怪現象が起きているようですな。
お茶やお花の習い事芸の先生たちは日々努力している。生徒さんのためにお道具を揃え場を整えるなど裏方仕事もけっこう忙しい。俳壇の結社宗匠(現代では主宰か)も同様で毎月のようにどーしようもない句を添削しお手本を示し散文を書きお弟子さんたちに気を配っている。大結社になると相当数のお弟子さんたちがいるから大変だ。主宰は現実に仕事している。でも弟子たちはヒマなのにいっぱしの作家のつもりでいることが多い。
たいていの俳句好きは月に10句ほど詠み年間で100とか150句くらいを詠むのがせいぜいだろう。句集は10年に一回、あるいは一生に一度出るか出ないかである。でも先生が「俳句は文学である」と胸を張って言い張っており、あの偉大な虚子先生が俳句を詠む者は皆創作者だとおっしゃっているのだから自分だって立派な創作者だと思い込んでいる。
お腹に手を当ててよーく考えてみなくても年間に100句程度を詠み、そんなに一生懸命なら俳句論だって書けるだろうと言われても30枚くらいでネタが尽きてしまうような人が作家になれるわけがない。んなこと書くと「赤黄男も窓秋も寡作だったぜ、書きゃぁいいってもんじゃねぇだろ」と口を尖らせるわけだが例外を探し出してちょっと安心してみてもまず99.9パーセントの確率で泡沫お遊び俳人であるのは変わらない。少なくとも目が覚めるような句集を一冊出してないと説得力がない。
やってることはどー見てもお遊び腰かけなのに、創作者だと頭っから思い込んでいる俳人たちは頭が高い。いっぱしのことを言う。時には大勢の弟子たちの中で目立ちたいがゆえに主宰に食ってかかったりする。必然的に主宰は「生意気なこと言ってんじゃねぇ」になりますな。一番の防衛策は威張り散らしてうかつなことを言わせないようにすることである。主宰は大変だ。弟子以外には穏やかな主宰もいるのはそれゆえですな。
この俳壇の病は簡単には解消できないが、威張っている割には、というより威張っているからだろうが俳人は自分たちより有名な権威に弱い。俳句の世界で特権的地位を得たいなら小説家として有名になって俳句を書くのが一番の早道じゃなかろか。漱石、龍之介などを俳人たちは別席をもうけて丁重に扱っている。渥美清や夏目雅子だって優遇されている。俳人たちはいつも奥歯に物が挟まったようなモジモジした言葉で彼らの句を誉める。だけどその裏に「わしらのジャンルに来たからにはあんたらは素人だよ」と言いたげな屈折した心情が透けて見える。
これもまた俳壇特有の淫靡な心理なのだが、なぜそんなことになるかと言えば、いわゆる文人俳句の作家たちが実際腰掛けで俳句を書いているからである。少なくても俳句にのめり込んで一所懸命ではない。俳人にしてみれば俳句を書いてくれたのは有難いけどナメてんじゃないのか、ということである。しかしそれは誤解だ。
宗匠も含め俳人のほとんどは俳句しか見ていないが小説家や詩人はもっと視野が広い。当たり前ですな。俗な人間心理の機微に精通しているのが作家であり、たいした詩人でなくてもその興味範囲は驚くほど広い。そういった広い視点から俳句という表現を自分なりに位置付けている。巧拙は別に俳句を書き俳句について考えることで得るものがあることを知っているのだ。そういった作家たちに対して俳句一辺倒の石頭が何を言っても詮ない。見ている所が違う。
小説家たちが俳句を書き残しているときはその作家に即した俳句のあり方を見なければ俳人には得るものがない。小説家たちが俳句を見ているのと同じ構図で小説や詩を見て理解しなければ決して俳句の視野は広がらない。でも俳人はまず間違いなくそれをやらない。相も変わらず自分たちのテリトリーに引き籠もってあーでもないこーでもないと思いつきを言い散らして終わり。それでは何をどーやっても得るものはない。
うた日記
こちたくな 判者とがめそ 日記のうた
みながらよくば われ歌の聖
自題
情は刹那を 命にて
きえて跡なき ものなれど
記念に詩をぞ 残すなり
我情こそは 時として
流石人をも 酔はすらめ
我詩は酒の 糟粕か
萎める花も しばらくは
え果てぬ執の 深うして
なりいでにける この巻よ
世の人焼かば 焼かれなん
よべ敷寝せし 高粱の
まだき薪と 燃ゆるごと
* * *
我歌は 野ぶり鄙ぶり 調あらじ 歌に老いたる うまびと聞かすな
我歌は 素ごとただごと 技巧あらじ 歌におごれる わかうどな聞きそ
周郎の かへりみはづる しのびごと 撥とりもちて しばしたゆたふ
森鷗外『うた日記』明治四十年(一九〇七年)冒頭
詠み捨てもあるだろうが鷗外俳句の多くは明治四十年(一九〇七年)刊の『うた日記』にまとめられている。鷗外は小説、戯曲、詩(俳句、短歌、新体詩[自由詩])、史伝を手がけた作家であり翻訳も多い。新聲社同人との訳詩集『於母影』が初期新体詩(自由詩)に大きな影響を与えたのは周知の通りである。アンデルセン『即興詩人』、ゲーテ『ファウスト』を始めとする小説や戯曲も広く読まれた。鷗外が今日歴史小説を中心とする小説家として知られているのは結果に過ぎない。
『うた日記』の意図は冒頭に「情は刹那を 命にて/きえて跡なき ものなれど/記念に詩をぞ 残すなり」とある通り。詩による日記である。鷗外は「先生、よく腱鞘炎になりませんね」と言いたくなるほど書きまくる作家だった。日露戦争時の作品が多いが鷗外は軍医として約二年従軍した。
日露戦争は激戦だった。腰を据えて小説や評論を書くことはできなかっただろう。彼の地位から言って戦死する可能性は低かったが『うた日記』が遺作となる可能性も皆無ではなかった。
『うた日記』の前半はほとんど新体詩と短歌である。半ばくらいからようやく俳句が現れる。鷗外は漱石や子規と同様に意志的に明治の新たな文学を打ち立てようとした作家である。早くから欧米詩の翻訳だけでなくその日本版の新体詩に強い興味を持っていた。子規は従軍記者として日清戦争取材のために中国に渡ったが毎日のように鷗外を訪ねた。鷗外を訪問した直後に日本新聞に連載した『陣中日記』には新体詩が激増する。鷗外の影響だろう。
日本の自由詩は明治末から大正初期に文語体・短歌的抒情詩の白秋によって大成されたかに見えた。が、誰もが思ってもみなかった形で朔太郎『月に吠える』でちゃぶ台返しのように文語から口語へ、短歌的抒情から完全自我意識文学へと変貌した。鷗外や子規は初期新体詩の実践者になってしまったわけだが両者とも新体詩を明治の新しい文学の糧としていた。特に鷗外は作品集として新体詩、短歌、俳句が入り混じる『うた日記』をまとめたわけで、それは明治四十年当時の鷗外の詩の捉え方そのものである。
黄禍 明治三十七年八月十七日於張家園子
勝たば黄禍 負ければ野蛮
白人ばらの えせ批判
褒むとも誰か よろこばん
謗るを誰か うれうべき
黄禍げにも 野蛮げにも
すさまじきかな よべの夢
黄なる流の 滔滔と
みなぎりわたる 欧羅巴
見よや黄禍 見よや野蛮
誰がささへん そのあらび
驕奢に酔える 白人は
蝗襲う たなつもの
黄禍あらず 野蛮あらず
白人ばらよ なおそれそ
砲火とだえし 霖雨の
野営のゆめは あとぞなき
* * *
黄なる奴 繭絲となれ われ富まん いなまば汝 きなるわざはひ
黄なれども おなじ契りの 神の子を しへたぐる汝 しろきわざわひ
明治三十七年八月十九日於張家園子
秋近く 蠅死すと日記に 特筆す
同
『うた日記』はすぐに消え去ってしまう「情」を残す試みであり、折々の考えや感情をそれに相応しい詩形式で表現するための試みでもある。明治三十七年八月十七日と十九日に張家園子で書かれた新体詩、短歌、俳句は『うた日記』という作品集の特徴をよく表している。
芸術至上主義者の鷗外にしては珍しく政治問題の黄禍論を題材にしている。日清、日露戦争によってヨーロッパ列強諸国の間で新興日本への警戒心が高まり、黄色人種の日本が世界に禍をもたらすという黄禍論が盛んになっていた。
新体詩で鷗外は「勝たば黄禍 負ければ野蛮/白人ばらの えせ批判」と欧米黄禍論を激しく批判している。しかし単純な反発ではない。「黄禍あらず 野蛮あらず/白人ばらよ なおそれそ/砲火とだえし 霖雨の/野営のゆめは あとぞなき」とあるように、黄禍論など「野営のゆめ」に過ぎぬと詩を結んでいる。
それを端的に表現したのが「黄なれども おなじ契りの 神の子を しへたぐる汝 しろきわざわひ」の短歌である。さらに二日後に冷静さを取り戻したように「秋近く 蠅死すと日記に 特筆す」の俳句を書いた。単純化して言えば黄禍論を巡る鷗外の「情」が思想表現の詩、感情表現の短歌、私情を捨てた叙景表現の形で変化し綴られている。
作品集としての詩集を残さなかった漱石や龍之介と『うた日記』を上梓した鷗外では詩への取り組み方が違う。特に『うた日記』の中の俳句については新体詩、短歌、俳句の流れを踏まえて読み解かなければその意図は理解できない。
岡野隆
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