今号では「終戦日特集 語り継ぐこと~世界が変わった8月」特集が組まれている。今年になって日本で公開された、クリストファー・ノーラン監督のアメリカ映画『オッペンハイマー』のレビューに多くのページが割かれている。特別寄稿の村田喜代子さんも原爆についてお書きになっている。戦争が本当に嫌なものであるのは言うまでもない。ましてや原爆投下など真っ平だ。そんな悲惨が再び起きてほしくないという気持ちは二度と起こしてはならないとい強い反戦決意にもなる。ただ外国が戦争を起こしても当事者になったり巻き込まれたりすることがある。一国の決意ではどうにもならないのがもどかしいところだ。
戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉
いわゆる戦争俳句で最も優れているのは白泉のこの一句だろう。なぜか。不気味だからである。気がついたら戦争が薄暗い廊下の奥に立っていたと読める。当時の軍国主義の浸透をこういった形で作品で表現した作家は白泉しかいない。
なぜふと気がつくと「戦争が廊下の奥に立ってゐた」のだろう。なぜどうしようもなく立っているのが見えてしまい、もう排除できなくなっていたのだろうか。それを考えるのは戦争の悲惨を伝え反戦の決意を固くするのと同じくらい大事なことだ。日本人の誰一人止められなかったからである。
自由な気風に満ちた大正デモクラシー時代から10年も経たず国粋主義が蔓延した。そこから日中戦争、太平洋戦争開戦までは一直線だ。終戦間際には厭戦気分が蔓延していたが、それでも多くの日本人が消極的にであれ一億総玉砕を支持していた。敗戦の悲嘆は一瞬でありほとんど悪夢から覚めたような茫然自失の短い空白の時間があった。戦後文学がそれを伝えている。戦後復興は早かったがその根底にはこの短い空白の時間が横たわっている。
太平洋戦争が明治維新以降の無理に無理を重ねた欧化主義の歪みが臨界に達して爆発した戦争だったのは間違いない。日英同盟の際には「これで日本も一等国になった」と多くの人が喜んだが、それは「もはや戦後ではない」という言説と同様に反語だった。明治35年(1902年)の日本はまったくの後進国だった。昭和26年(1956年)は戦後真っ只中である。日本が完全に欧米コンプレックスから抜け出して本当に彼らと比肩できるようになったのは2000年前後からである。
日本は日本が中心になって東アジアからインド・中東エリアに至る東亜同胞を西欧帝国主義列強国の植民地から解放するという大東亜共栄圏構想の大義を掲げながら、実体として西欧列強と同じ植民地帝国主義の道を歩んだ。欧米を敵視しながら同化していた。そんな矛盾が早くから欧米で黄禍論を巻き起こし次第に日本が追い詰められていく大きな原因になった。太平洋戦争に至る政治的軌跡である。
またそれに呼応して起こった国粋主義は根深い欧米コンプレックスの裏返しだった。思考形式から機能的社会機構に至るまで、欧米に倣わなければにっちもさっちもいかないことは誰もが知っていた。実際いち早い欧化が日本が西洋列強の植民地になることを防いだ。欧化が厳しい世界情勢を生きのびる唯一の道だったわけだ。しかしそれはいつか必ず如何ともし難い民族・宗教共同体の根底と抵触する。政治的にも精神的にも矛盾を抱えそれを自力で解消できなかったことが太平洋戦争開戦に繋がっている。
富澤赤黄男「戛々とゆき戛々と征くばかり」という従軍中の苦しい精神状態を検閲ギリギリで詠んだ句や、鈴木六林男「遺品あり岩波文庫阿部一族」のような戦死者を悼んだ優れた句はそれなりにある。ただ白泉「戦争が廊下の奥に立ってゐた」のような強くアポリアを喚起させる句はほかに見あたらない。太平洋戦争は当時の政治と精神状態が複雑に絡み合ったアポリアである。それは必ず解かれなければならないがまだ十分な検証ができていない。もうしばらくは白泉の句の前で立ち止まり不気味な戦争と対峙しなければならないようだ。
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今号には「俳句百物語~ホラー・妖怪と俳句」特集も組まれていて、「「怖い」俳句 30句セレクションと解説」をお書きになっている倉阪鬼一郎さんが「時代と世界の恐怖」の項で白泉「戦争が廊下の奥に立ってゐた」を選んでおられる。ただ「ホラー・妖怪と俳句」特集というくくりではどうしてもこの句が持つ意味・イメージ両面での重さが軽くなってしまうのは否めませんな。
また倉阪さんと「私が「怖い」と感じた一句」のエッセイをお書きになっている池田瑠那さんが共に高濱虚子の「爛々と昼の星見え菌生え」を例にあげておられる。こういうアンソロジーを組むと必ず虚子の句が一つや二つ入選するのが商業句誌のお約束である。それだけ虚子俳句が網羅した句題が広範囲に渡っていたからだが、「爛々と」を「「怖い」と感じた一句」にしてしまうと収拾がつかなくなるだろう。「爛々と」で虚子のその時の心情を強化した句だが基本は風景写生である。特に怖いという感じはしない。
それなら安井浩司「渚で鳴る巻貝有機質は死して」だってじゅうぶん怖い句である。俳句は海の渚に転がっている巻貝であり、575に季語という殻は固いが中身の有機質は死んでいると読めるからである。ほとんどの俳人は殻(575に季語)を詠んでいるだけで句の中身はないということだ。それは事実であり、その厳しい事実に直面するところから俳句は始まる。しかしほとんどの俳人は脊椎反応で拒絶するだけでしょうな。脳までこの句を届かせて考えなければ怖さ自体わからない。形式(殻)がなければ俳句ではないと俳人のマジョリティが認めている以上、形式に沿えば内容も必ず形式化する。それを当然と受け入れてなおも俳句を詠み続けて初めて〝俳句‘〟や〝俳句‘’〟が生まれる。
公達に狐ばけたり宵の春
飯盗む狐追ふ聲や麥の秋
狐火やいづこ河内の麥畑
麥秋や狐ののかぬ小百姓
秋の暮佛に化る狸かな
戸を叩く狸と秋を惜しみけり
石を打狐守る夜の砧かな
蘭夕狐のくれし奇楠を炷ん
小狐の何にむせけん小萩原
小狐の隠れ顔なる野菊かな
狐火の燃えつくばかり枯尾花
草枯れて狐の飛脚通りけり
水仙に狐遊ぶや宵月夜
化けさうな傘かす寺の時雨かな
獺の住む水も田に引く早苗かな
獺を打し翁も誘ふ田植かな
河童の戀する宿や夏の月
蝮の鼾も合歓の葉陰かな
麥秋や鼬啼くなる長がもと
黄昏や荻に鼬の高臺寺
むさゝびの小鳥喰み居る枯野かな
与謝蕪村 正岡子規『俳人蕪村』より
怖いかどうかは別として、狐狸譚を最も自在に詠んだのは与謝蕪村だろう。「公達に狐ばけたり宵の春」「狐火やいづこ河内の麥畑」「狐火の燃えつくばかり枯尾花」「化けさうな傘かす寺の時雨かな」は秀句だ。俳諧の諧謔をよく表した句でもある。
人が怪談などを怖いと感じる際にはその前提として共同幻想が成立していなければならない。江戸時代までは狐や狸が人を化かすと信じられていた。半信半疑だろうとそんなこともあるだろうなと思われていた。河童目撃談が多いことは言うまでもない。狐の嫁入りを見たという記録だってたくさんある。
これらは現代では霧散してしまった共同幻想なので、現代俳人が蕪村句から手っ取り早くアイディアをかっぱらおうとしてもなかなか難しいだろう。ただ蕪村の狐狸譚句はそのほとんどが共同幻想を前提にその中にいてそれらを写生している。これは俳句のあるべき姿である。俳句で怪異を説明的に書くことはできない。個人的思い入れを表現すればわけがわからなくなる。平明な写生によって不可思議に憑く必要がある。
岡野隆
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