No.135『本阿弥光悦の大宇宙』
於・東京国立博物館
会期=2024/01/16~03/10
入館料=2,100円[一般]
カタログ=3,300円
光悦展、しかも『本阿弥光悦の大宇宙』とあるので、こりゃ期待出来るぞとスキップしながら早速東博に行ってまいりました。光悦作品はどの美術館でも目玉展示物だから、代表作はあらかた見ている。しかし光悦作が一堂に会する美術展はめったにない。また大規模な光悦展が開催されるのは何年ぶりだろうか。東博では初めてかもしれない。
『本阿弥光悦坐像』
伝本阿弥光甫作 一軀 木製 像高二二・五×横幅二二×奥行一二・七センチ 江戸時代 十七世紀
まずは光悦さんのお姿から。笑顔で耳が大きい大黒天のような目出度い福相である。光悦は子がいなかったので光瑳を養子にしたが、その子(孫)の光甫作と伝えられる。光甫というより光悦芸術を受け継いだ空中斎と言った方がピンとくるかもしれない。
像の底には「相州(現・神奈川県)の星降の梅を以てこの光悦像を造る」(原文漢文)と彫られているだけで空中の銘はない。日蓮聖人が流罪となって相州に滞在していた際に、梅の木の枝に明星天子が降臨なさったという奇瑞が伝わっている。光悦は熱心な法華経信徒だったので、それを踏まえてわざわざ相州から梅の木を取り寄せて作ったのである。空中作の確証はないが、生前の光悦をよく知る人の作だろう。
本阿弥光悦は室町時代末の永禄元年(一五五八年)生、江戸時代初期の寛永十四年(一六三七年)没、享年八十歲。能書家として知られるが、漆芸、陶芸にも秀で数々の傑作を生み出した総合芸術家である。能の詞章が書かれた豪華な謡本の印刷発行も行った。江戸時代までの芸術家(工芸家)は絵師も含め、家業としてその業を受け継ぐのが一般的だったので、複数の芸術(工芸)を手がけた作家は少ない。その幅広さでは光悦が唯一無二だろう。
光悦の名を高めたのは尾形光琳・乾山兄弟、そして酒井抱一である。本阿弥家は刀剣の麿礪(研磨)、浄拭(手入れ)、目利(鑑定)が家職で代々室町将軍家に仕え豊臣秀吉、徳川家にも重用された。ただ将軍家に仕えたのは本阿弥本家で、光悦は本阿弥別家・次郎左衛門家の出だった。別家を設けるのは本家で後継ぎが生まれなかった際に養子を取ったり、為政者の勘気に触れた場合などに一族の系譜が絶えないようにするためである。武士はもちろん裕福な町人の間でも盛んに行われていた。
光琳・乾山につながるのは、光悦の姉・法秀が京の裕福な呉服屋・雁金屋の尾形道柏に嫁いだためである。道柏の三代後に光琳・乾山兄弟が生まれた。光琳は血縁関係にある芸術家の先達・光悦を敬愛し、本業は絵師だが八橋蒔絵螺鈿硯箱などの漆芸作品も手がけた。また光悦が重用した俵屋宗達にも私淑して宗達代表作の『風神雷神図』を模写している。光琳は生前から人気絵師だったが、没後その人気は衰えるどころかますます高まった。光琳評価を決定づけたのが幕末に活躍した抱一である。
よく知られているように琳派は狩野派のように家業として継承されたわけではない。光琳芸術に魅せられた者は誰でも琳派を名乗ることができた。抱一は光琳に私淑して『光琳百図』などを刊行した。また乾山弟子の江戸乾山三世・宮崎富之助から乾山文書資料一式を譲り受け乾山四世を名乗った。抱一は光琳の事蹟を辿って宗達にも注目している。いわゆる琳派の土台は抱一によって形作られた。
ただし抱一は〝尾形流〟を称して琳派を名乗っていない。美術史で琳派の名称が現れるのは大正時代になってからである。それからじょじょに研究が本格化し、琳派の中核は光琳だがその祖に宗達と光悦がいるという定説が形作られていった。それに沿って作品も分類され始めた。図式的に言うと琳派は光悦から始まり、宗達の影響を強く受けて光琳によって大成され、幕末抱一の時代まで続いたことになる。
ただ大正時代から現代まで、百年以上に渡って形作られてきたこの通説が実証的なものかというと、そうは言えない。数々の空白がある。特に始祖と目される光悦の事蹟には謎が多い。
『刀 金象嵌銘 江磨上 光徳(花押)(名物 北野江)』
郷(江)義弘作 一口 刃長六九・七 反り一・八センチ 鎌倉~南北朝時代 十四世紀 東京国立博物館蔵
茶道具だけでなく刀剣にも名物がある。『享保名物帳』に掲載されている刀剣であり、『享保名物帳』は享保年間に本阿弥宗家がまとめた。北野江は名物の一振りで光悦の子・光瑳と本家の光益が堺で見出し、宗家九代・光徳が名工・郷(江)義弘作と極めて加賀藩二代藩主・前田利常に納めた。「江磨上 光徳」の金象嵌銘がありこれは光悦筆だと言われる。北野江が前田利常の元に収まったのは慶長二十年(一六一五年)頃なので、光瑳が能書家の父・光悦に書を依頼して象嵌したのだろう。
光悦が刀剣の仕事をしていたのは間違いない。ただしその物証はとても少ない。光悦は加賀藩前田家から禄を得ていたので、古田織部と金森可重の仲介で初代藩主・前田利長のために『劍尽』(現存しない)を書いたという書状が残っている。しかし刀剣で光悦が関わった痕跡があるのは北野江だけである。
光悦の刀剣関係の物証(資料)が少ないのは、別家は本家を補佐するという位置付けだったからだろう。刀剣の正式な鑑定証である折紙は宗家の当主しか書けないという決まり事があった。光悦は裏方に回っていたのかもしれない。が、それにしても遺品が少ない。ただ刀剣には柄や鞘などの刀装を施さねばならず、木地師や塗師、彫金師らの協力が必要だった。そういった職人が身近にいたので光悦は蒔絵を手がけたのだと推測されている。
『花唐草文螺鈿経箱』
本阿弥光悦作 木製漆塗 縦三八・二×横一八・五×高一二・五センチ 江戸時代 十七世紀 京都・本法寺蔵
『船橋蒔絵硯箱』
本阿弥光悦作 一合 木製漆塗 縦二四・四×横二三×高一一・八センチ 江戸時代 十七世紀 東京国立博物館蔵
光悦は徳川家康から京都洛北の鷹峯の地を拝領し、法華宗の信徒である町衆らと住んだ。豪商や貴人向けの職人が多かったことから鷹峯は光悦が理想とした芸術家村だとも、法華衆の理想郷だとも言われる。
光悦は本阿弥家菩提寺の本法寺に経典を寄進した。その際、法華経などの経典を入れておくための箱としていっしょに納めたのが『花唐草文螺鈿経箱』である。螺鈿装飾の豪華な箱だが、経箱ということもあって独創性は薄い。
『船橋蒔絵硯箱』は光悦代表作の一つで国宝指定されている名品中の名品である。源等の和歌「東路の 佐野の船橋かけてのみ 思わたるを知る人ぞなき」(『後撰和歌集』)の意匠の硯箱だ。パッと見てわかるように、蓋が異様なほど大きく盛り上がり、そこに黒い帯のような橋(船橋)が掛かっている。これは鉛板で、漆器にこれほど大胆に鉛を使ったのは光悦が初めてである。造形的にも材質的にもそれまでなかった斬新な意匠の漆器であり、その力強い華やかさは琳派の始まりを思わせる。光琳は『八橋蒔絵螺鈿硯箱』で光悦に倣って鉛板を使っている。
ただ光悦作と言われる漆器はそれなりの数が伝わっているが、確実に光悦の手になるという物証があるのは『花唐草文螺鈿経箱』だけである。名品『船橋蒔絵硯箱』にしても光悦銘もなければ伝来を示す書状などもない。また光悦作と言われる漆器の製作技法を比較検討すると、かなりの違いがあることがわかっている。『船橋蒔絵硯箱』にしても光悦作を疑問視する声がある。
漆器の製作技法が異なるのは、木地師や塗師などの職人が仕上げたからだと考えることはできる。光悦は意匠(デザイン)だけ担当したのかもしれない。また光琳のパトロンだった銀座年寄の中村内藏助が正徳四年(一七一四年)に闕所追放となった際に、家財を没収され入札売却となった。その記録の中に光悦漆器が含まれている。内藏助は光琳から光悦作を入手したと考えるのが自然なので、雁金屋には確実な光悦作の漆器が伝わっていたのだろう。ただその絵などは残っていない。光悦が漆器を手がけたのは確かだが、どれが光琳本歌(真作)で間違いないのかを特定するのは案外難しい。
『光悦謡本 特製本』
一〇〇帖のうち 紙本雲母摺絵木版 縦二四・一×横一八・二センチ 江戸時代 十七世紀 東京・法政大学鴻山文庫蔵
『光悦謡本』にも同様のことが言える。江戸初期から能の詞章が書かれた練習用の謡本が作られ能の流行に大きく寄与した。『光悦謡本』はその豪華本である。上質の紙に雲母などの顔料で模様を印刷し、その上から手書き、または木版で文字を印刷している。
図版掲載した『光悦謡本 特製本』『江口』の表紙は後述の宗達鶴図によく似ている。宗達が木版画の下絵を手がけたのかもしれない。しかし最近の研究では『光悦謡本』の文字は光悦の書体ではない。『光悦謡本』は大量に残っているが光悦の肉筆書と一致する文字は見つかっていない。最初の方で光悦は謡本の印刷発行を行ったと書いたが、それはあくまで伝承で裏付けとなる資料はない。
もちろんだからと言って光悦が『謡本』の制作に関与していなかったとまでは言えない。同時代に作られているので何らかの形で関わっていたと考える方が自然である。しかし『光悦謡本』が能書家の光悦書であるという触れ込みで作られた、あるいは光悦や宗達の書画を模して、彼らの与り知らぬところで作られた可能性もある。刀剣の仕事は別として、漆器や『謡本』での光悦の仕事にはまだ解明されていない謎が多い。
『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』
本阿弥光悦筆 俵屋宗達下絵 一巻 彩箋墨書 縦三四・一×横一三五六センチ 江戸時代 十七世紀 京都国立博物館蔵
確実な光悦作として大量に残っているのは書である。その書は光悦流という流派を生み出すほど人気だった。書状はもちろんお正月の書き初めまで軸装され珍重されている。中でも光悦と宗達の共作は傑作である。『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』『鹿下絵新古今集和歌巻断簡』などが知られており、今回は『鶴下絵』が展示されていた。
『鶴下絵』は藤原公任の『三十六人撰』所載の三十六首を散らし書きした作品である。こういった作品は書の余白に絵師が絵を描くか、絵の余白に書を描くのが普通である。しかし『鶴下絵』は光悦の書と宗達の絵が重なっている。図録解説によると「本作には墨書の上に金銀泥が載った箇所や、墨書に合わせて下絵に補筆した箇所があるとされ、光悦と宗達が同じ場で共同制作したという見解がある」。すべて残っているのは『鶴下絵』だけで『鹿下絵』は部分が諸家に所蔵されているが、恐らく『鶴下絵』と同じような共同作業で作られたのだろう。
散らし書きと絵を組み合わせたやまと絵は平安時代から綿々と作り続けられている。しかし光悦―宗達共作ほど書画一体の作品は例がない。こういった緊密な作品は技術力が高いだけでは生まれない。作家の思想が必要である。
『蓮下絵百人一首和歌巻断簡』
本阿弥光悦筆 一幅 彩箋墨書 縦三三・一×横六〇・五センチ 江戸時代 十七世紀 サントリー美術館蔵
『蓮下絵百人一首和歌巻断簡』の絵は少し前まで宗達作だったが、伝宗達に格下げになったようだ。それはともかく元々は藤原定家撰の『百人一首』を揮毫した長大な和歌巻だった。明治時代に分割され、今残っているのは四十首の断簡である。サントリー本に書かれている歌は西行法師の「嘆けとて 月やはものをおもはする かこちがほなる我涙哉」と寂蓮法師の「村雨の 露もまだひぬ槙の葉に 露たち上秋の夕暮」の部分である。
色絵には宗達画に特徴的なたらし込みの技法が使われている。宗達、あるいは俵屋の絵師の手かもしれない。ただ墨だけで蓮が描かれている箇所がある。途中で色絵制作が放棄されたようにも、最初から墨絵の箇所を残しているようにも見える。ただこの墨描きの蓮は審美的には異和である。色絵で統一した方がスッキリしたはずだ。なぜ色絵と墨絵の組み合わせなのか。
『蓮下絵百人一首和歌巻断簡』
本阿弥光悦筆 一幅 彩箋墨書 縦三三・三×横八三センチ 江戸時代 十七世紀
こちらの個人所有本の断簡は『蓮下絵』の末尾である。順徳院の「百敷や ふるき軒端のしのぶにも 猶余有昔成けり」の部分が書かれている。光悦の号「大虚庵」の自署と花押がある。
図録の解説によると、光悦の同時代に流布していた和歌注釈書に、定家は『新古今和歌集』が「実」(心)より「花」(詞)が勝った和歌集になってしまったことを悔やみ、「花」(詞)より「実」(心)を重視して『百人一首』を選んだという記述があるようだ。光悦伝の『本阿弥行状記』第一三六段にもこの花実論を踏まえた記述がある。また蓮は法華経信徒にとって重要なシンボルである。
光悦は『鶴下絵』や『鹿下絵』で宗達を身近に置いて詞と絵が一体化した和歌巻を作った。審美的には完璧だが、『蓮下絵』では光悦の表現欲求は別のところに置かれていたのではないか。墨絵は光悦の絵画的思想表現だろう。審美性(花)より思想(実)が重視されている。
今回の展覧会は素晴らしい光悦作品がズラリと並んでいて見応えがあった。ただ図版を通読したが、最新研究でも光悦作品の謎や疑問点を解消してくれるような新しい発見はなかったようだ。その代わりと言ってはなんだが、今回の展覧会の眼目は、熱心な法華経信徒という面から光悦作品を読み解くことにある。しかしそれは推論にならざるを得ず、実証主義の美術研究ではなかなか難しい。
『黒楽茶碗 銘村雨』
本阿弥光悦作 陶製 高九・五×口径一二・三×高台径四・三センチ 江戸時代 十七世紀 京都・樂美術館蔵
確実に光悦作と言える作品には楽茶碗もある。二十数碗が知られていて、疑問作もあるが、今回出品された作品は光悦作で間違いない。作行きが完全に統一されているからである。茶碗に銘はないが、光悦作となっている同時代の箱もある。
光悦茶碗は作為だらけである。茶碗の上の方は釉薬を剥がしている。ヒビ割れもある。お尻の高台は無造作に作ったように見える。しかしそれらはすべて光悦の作為(計算)である。
日本の陶磁器は作為なき作為を最上とする。室町時代までは誰が作ったのかわからない中国や朝鮮陶の中からそういった作品を茶人が選んでいた。しかし江戸初期になると、伝説的な楽家初代・長次郎は別として、光悦や野々村仁清らの作家が現れる。今とは質が違うが作家は強い自我意識を持った表現者のことである。個性を発揮しようとすればするほど作為が目立つようになる。光悦茶碗は作為だらけなのにまったく作為を感じさせない。いわゆる作家モノの中で最高の茶碗の一つである。
また光悦は古田織部に茶を学んだというが、茶碗の作風は装飾的な織部好みとはまったく違う。光悦は土や釉薬、焼成に楽家二代・常慶と三代・道入の助けを借りていたことが知られている。しかし楽家の茶碗とも異なる。光悦茶碗には高い精神性が感じられる。ただし光悦の思想を窺い知ることができる著作などがないわけだから、物からそれを導き出すのは難しい。深入りしようとすれば、いわゆる文学的直観に頼るしかないでしょうね。
(2024 / 01 /24 16枚)
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